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東京地方裁判所 昭和63年(合わ)280号 判決

主文

被告人Aを無期懲役に、被告人Dを懲役一年六月にそれぞれ処する。

未決勾留日数中、被告人Aに対しては一〇〇〇日を、被告人Dに対してはその刑期に満つるまでの分を、それぞれその刑に算入する。

被告人Dに対し、この裁判の確定した日から三年間その刑の執行を猶予する。

被告人Dから、押収してあるライフル銃一丁(〈押収番号略〉)及び実包一〇〇発(ただし、うち一五発は試射済みのもの。)(〈押収番号略〉)を没収する。

訴訟費用中、証人野澤清重、同福原光治、同水上晴由、同若林忠純、同ペリー・バーンズ、同フランシスコ・ガルシア、同デニス・アルガイヤー、同コーネリウス・ニーリー、同ダニー・コントレラス、同グレン・ジェインズ、同ジョン・グリーン、同デビット・L・グレイ、同リチャード・カンザキ、同大町茂、同石山昱夫、同松本寛子、同ウェイン・ギルバート・イェシド、同渡邉哲、同C2、同C5、同日下祐二、同三浦民夫、同堀内啓吉、同C3、同田中潤、同土肥俊雄、同宇佐美嘉康、同小日向信光、同田中隆、同箱嶋邦光、同田口敏行及び同稲葉庄二並びに通訳人大内紀美(第三〇回及び第三一回各公判期日に通訳した分を除く。)、同伊原和子及び同及川真理子(第三〇回及び第三一回各公判期日に通訳した分を除く。)に支給した分は、被告人Aの負担とする。

本件公訴事実中殺人の点については、被告人Dは無罪。

理由

(認定した事実)

第一  被告人Aの身上、経歴及び殺人に至る経緯等

一  被告人Aは、昭和二二年七月二七日、山梨県東八代郡錦生村で生まれ、昭和三八年三月神奈川県小田原市酒匂中学校を卒業後、いったんは就職したものの、将来のことを考えて翌三九年四月横浜市立戸塚高等学校に入学した。しかし、昭和四〇年四月に同校を中途退学し、その後雑誌社のセールス業務に従事するなどするうち、昭和三九年一二月以降、放火、強盗致傷等を連続的に敢行した事件で昭和四〇年六月に逮捕され、昭和四三年七月懲役一〇年の判決を受けて服役し、昭和四九年七月二三日仮出獄により出所した後は、雑誌社、生地問屋等に勤務し、昭和五一年ころからは、A兄弟商会、Mオフィス等の名称で輸入雑貨品等の販売業に携わるようになり、昭和五三年二月に同種の営業を営む「株式会社フルハムロード」(以下「フルハムロード」という。)を設立してその代表取締役となり、本件犯行時もその地位にあった。

Aは、この間の昭和五〇年二月Sと(同年八月離婚)、昭和五一年六月Nと(昭和五三年一二月離婚)、昭和五四年七月Cとそれぞれ結婚し、Cとの間に長女C1を設けている。

二  Aは、Cとの結婚後、昭和五五年一月一日付けで、第一生命保険相互会社との間において、①Cを被保険者、Aを受取人とする死亡時保険金額一五〇〇万円(災害死亡時三〇〇〇万円)、保険期間五年、保険料掛け捨ての集団定期保険契約を締結し、さらに、昭和五六年二月一日付けで、千代田生命保険相互会社との間において、②Cを被保険者、Aを受取人とする死亡時保険金額二五〇〇万円(災害死亡時五〇〇〇万円)、保険期間一〇年、保険料掛け捨ての定期保険契約を締結した。

三  そして、Aは、Cに掛けた右各生命保険金の取得を目的としてCを殺害することを計画し、昭和五六年三月ころ、かねてロスアンジェルス市内の「浪花寿司」に出入りするうちに知り合った同店の板前福原光治をAが宿泊していた同市所在のシティーセンターモーテルの客室に呼び出し、右福原に、「君と組んで犯罪請負の仕事をしようと思う。君はピストルを撃ったことがあるか。人殺しをやらないか。」などと話してCの殺害を持ち掛けようとしたが、福原がこれに加担することを拒絶したため実現するに至らなかった。

その後、さらに、Aは、同年五月上旬ころ、フルハムロードの営業担当社員水上晴由を東京都内の赤坂東急ホテルの客室に呼び、同人に、「Cが同業者のランチマーケットの社長と浮気して会社の情報を流している。」、「お前は金のためなら何でもできる人間か。」などと尋ね、暗にCの殺害に加担する気持ちがあるかどうかを打診し、同人が即答を避けたためその場ではいったん話を打ち切ったものの、同月下旬ころ、再び同人を同所に呼び、「この前の話だけど、その仕事をやる気があるなら、一生食べられるくらいの仕事がある。二〇〇〇万円くらいはもらえる。」、「車のブレーキを効かなくすることはできるか。」などと話して、Cの殺害を持ち掛けようとした。しかし、水上がAの企図に畏怖し、関わりを拒んだため、これも立ち消えとなった。なお、右ランチマーケットとは、「ハリウッド・ランチマーケット」のことで、同社の社長垂水紀雄はCとは面識がない。

四  このように、Aは、福原及び水上をC殺害の共犯者に引き込もうとしたがうまくいかなかったところ、昭和五六年五月上旬ころ、前記赤坂東急ホテルの客室で開かれたパーティーの席で、これに参加したBと知り合い、同月下旬ころには、同女と肉体関係を持つまでに至り、その後、同女から、別れた愛人の話を聞くや、右愛人の妻にBが妊娠して子供を墜ろしたと嘘を言って、Bに対する慰謝料名下に現金三八万円を出させるなどしたため、次第にBから信頼され、思慕の情を寄せられるようになった。

このような状況下で、Aは、同年七月一〇日ころ、Bを東京都渋谷区内の喫茶店「セレクション」に呼び出し、同女に対し、「実は、人を殺す仕事がある。その仕事は保険金殺人だ。ワイフがライバル会社の社長と浮気して、うちの会社の情報を流している。ワイフに愛情なんかない。保険金欲しさだけでワイフを殺そうと思っている訳ではない。やってくれるなら保険金の半分をあげる。もしやってくれるなら、僕とBは一生つながっていける。」などと述べて、C殺害の計画への加担を求め、これに対してBは、翌一一日ころ、これに応じる旨の返事をした。その後、AとBは、喫茶店、駐車した車の中、ラブホテル等でC殺害の相談をした。その結果、C殺害の場所がロスアンジェルスと決まったので、同月一四日ころ、Bはロスアンジェルスを含むアメリカ旅行のツアーの申込みをし、同月二七日ころ、Aは、渡航費用等として現金六〇万円をBに手渡した。

Aは、同年八月五日、かねてから外国旅行の際に海外旅行傷害保険契約を結んでいたアメリカンホーム・アシュアランス・カンパニー(以下「アメリカンホーム」という。)の営業社員日下祐二をフルハムロードに呼び、同日、同社との間において、③被保険者をC、受取人を法定相続人、すなわちA及びC1とする保険金額七五〇〇万円、保険期間昭和五六年八月一二日から一〇日間の海外旅行傷害保険契約を結び、その際、被保険者をAとし、受取人を法定相続人とする右と同内容の保険契約をも併せて締結した。

翌八月六日、Aは、赤坂東急ホテルの一室でBと会い、Bのツアーの日程表を見てC殺害の実行日を同月一三日と決めた上で、Bに対し、「僕もCもホテルニューオータニに泊まることにしてあるから、Cをやる場所はホテルの部屋にしよう。アメリカに行ってトンカチのような鉄の塊を見つけてある。それでCの頭を何度も殴れ。その道具はロスに行ってから渡す。」、「Cをやる時間には、僕は商談をセットしてCを一人にしておく。Cにはドレスの仮縫いの女が来ると話しておく。仮縫いの採寸に来た振りをして部屋に入れ。Cが背中を向けて歩き出したら、すぐに頭を殴れ。」、「終わったら、部屋の中のハンドバッグやカバンから現金や貴重品を取り、バッグの中身をばらまいて強盗に襲われたように見せかけろ。」などとC殺害の方法を指示した。

Bは、同月一〇日渡米の途につき、同月一二日(アメリカ合衆国太平洋標準時。以下、同国内における事実についてはこの標準時により表す。なお、同標準時は日本の標準時より一七時間遅い。)、ロスアンジェルス市内にあるホテルニューオータニにチェックインした。他方、Aは、日本時間の八月一二日、Cを伴いアメリカへ向けて出発し、現地時間の同日夕刻、右ホテル内の客室二〇一二号室に入った。

Aは、翌八月一三日午前一〇時ころ、Cに隠れてひそかにBの部屋に赴き、同女に対し、Cのいる部屋の番号や同女の容姿、服装などを教えた上、金属製のハンマー様の凶器を手渡し、これでCを殴打して同女を殺害するように指示した。同日夕方ころ、Bは右ハンマー様のものを携えてCの客室を訪ね、Cが開けたドアから客室内に入り、Cがドアを閉め、Bに背を向けて歩き始めるや、袋の中に用意していた右凶器を取り出し、Cの背後からその後頭部目掛けて殴りかかったが、Cの抵抗に遭い、凶器を取り上げられたため、殺害の目的を遂げられなかった(以下右事件を「殴打事件」という。)。

五  このようにAはCの殺害に失敗したため、Bを利用してのC殺害を断念したが、その後、再度、Cを殺害して保険金を入手しようと思い立ち、新たにC殺害の実行を担当する氏名不詳の共犯者を探し出した上、右共犯者との間で、Cをロスアンジェルスに連れ出し、路上で強盗に見せかけてCを銃撃して殺害することを計画し、右共犯者との間でその旨の謀議を遂げた。

そして、Aは、かねてアンティークドレスの販売の仕事に関心を持っていたCに対し、アンティークドレスの買い付けに行くとの口実を設け、昭和五六年一一月一七日に再びCとともにロスアンジェルスに渡米することとし、その手続きをした上で、渡米前日の同月一六日ころ、アメリカンホームの従業員日下祐二に依頼して、同社との間において、④被保険者をC、受取人を法定相続人、すなわちA及びC1とする保険金額七五〇〇万円、保険期間昭和五六年一一月一七日から七日間の海外旅行傷害保険契約(治療費用保険金支払限度額五〇〇万円、救援者費用等担保特約、携行品損害担保特約、疾病死亡危険担保特約、疾病治療費用担保特約、賠償責任危険担保特約の各特約付き)を締結した。その際、同時に被保険者をA、受取人をフルハムロードとする右と同一内容の海外旅行傷害保険契約をも締結した。この結果、本件殺人の時点で、AがCを被保険者として締結した生命保険契約の保険金額は、前記①②④の合計一億一五〇〇万円(災害による死亡の場合は一億五五〇〇万円)となった。

Aは、同月一七日、Cを伴い新東京国際空港からロスアンジェルス国際空港に向けて出発し、現地時間の同日午後零時四五分ころ、同国際空港に到着した。そして、Aは、同空港近くのレンタカー会社から栗色のフォード社製乗用車フェアモント(以下「フェアモント」という。)を借り受け、これを運転して同日午後二時二〇分ころ、ロスアンジェルス市西セブンス通り一一三五番地所在の前記シティーセンターモーテルにチェックインした。

翌一一月一八日午前九時ころ、Aは、フェアモントにCを同乗させてシティーセンターモーテルを出発し、フルハムロードで扱っている衣料品にプリントする図柄の参考にするためカリフォルニアのイメージがよくわかる写真を撮影するとの口実を設け、風景写真等を撮影しながら右フェアモントを運転してロスアンジェルス市内を走り回り、同日午前一一時ころ、かねてC殺害を実行する場所として選定しておいた北フリーモント通り沿いの駐車用空地(以下「オフセット駐車場」ないし「本件駐車場」ともいう。)に至った。

なお、北フリーモント通りはほぼ南北に走る全長約四〇〇メートルの直線道路で、その南端はファースト通りと、その北端はテンプル通りと交差している。

オフセット駐車場はテンプル通りから北フリーモント通りを約二三〇メートル南下した位置にあり、同道路の西側に沿って存在している高い土手の一部を数メートルないし十数メートル四方に切り取って平坦な地面とした野外の駐車用施設である。犯行当時同駐車場には、六台の人のいない乗用車がその車体の前部または後部をほぼ東西方向に向けて並列駐車しており、いわゆる満車の状態であった。

前記のとおり、Aとの間でC殺害の共謀を遂げた氏名不詳の共犯者は、Cを銃撃するべく、かねての計画どおり、右六台の駐車車両のうち一番南の駐車車両に近接し、かつ北フリーモント通りとほぼ平行となるような位置に白色の貨物用バン(以下「本件バン」ないし「現場バン」ともいう。)を南向きに停車させ、AがCを伴ってオフセット駐車場に来るのを待ち受けていた。

Aは、同バンと右六台の駐車車両との間にフェアモントを停車させ、Cとともに車を降り、本件駐車場付近で写真を撮るなどしていた。

第二  殺人の犯罪事実

被告人Aは、氏名不詳者と共謀の上、被告人Aの妻Cを被保険者とする生命保険金を取得する目的で同女を殺害しようと企て、昭和五六年一一月一八日午前一一時五分(アメリカ合衆国太平洋標準時)ころ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロスアンジェルス市北フリーモント通り二〇〇ブロックの駐車用空地において、右氏名不詳者が、同女に対し、その顔面に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ、よって、昭和五七年一一月三〇日午前一時五〇分(日本国標準時)ころ、神奈川県伊勢原市下糟屋一四三番地の東海大学病院において、同女をして、右銃弾による脳挫傷により死亡させて殺害したものである。

第三  殺人に関連する保険金詐欺の犯罪事実

被告人Aは、共犯者である前記氏名不詳者をして妻Cの顔面を銃撃させて同女を廃疾状態に陥れ、かつ、右共犯者をして自己の大腿部を銃撃させて受傷したものであるにもかかわらず、これを秘し、あたかも同女及び自己が何者かによって銃撃されたかのように装って保険金名下に金員を騙取しようと企て、

一  昭和五六年一二月二三日ころ、東京都渋谷区神宮前〈番地略〉のフルハムロードの事務所において、アメリカンホーム(日本における代表者猪谷千春)に対し、右Cが同年一一月一八日(アメリカ合衆国太平洋標準時)にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロスアンジェルス市内で何者かに銃撃されて廃疾状態に陥り、その際ダイヤモンド指輪を強奪された旨内容虚偽の事実を記載した被告人A名義の海外旅行保険金請求書兼状況報告書及びCが銃撃を受けた際に、被告人Aも同様に何者かに銃撃されて大腿部に受傷し、その際サングラスを破損した上、カメラを紛失した旨内容虚偽の事実を記載した被告人A名義の海外旅行保険金請求書兼状況報告書を同社の代理店を営む日下祐二を介して提出した上、かねて被告人Aが同社との間に締結していた被保険者をCとする海外旅行傷害保険契約に基づく保険金及びかねてフルハムロードがアメリカンホームとの間に締結していた被保険者を被告人Aとする海外旅行傷害保険契約に基づく保険金の各支払いを請求し、右猪谷らをして、その旨誤信させ、よって、

1 別紙一覧表(一)記載のとおり、昭和五七年二月一七日ころから同年六月二五日ころまでの間、前後六回にわたり、いずれも、フルハムロードの前記事務所において、同人らから、右日下を介し、被告人A及びC両名の治療費用保険金等名下に、アメリカンホーム振出名義の小切手合計七通(金額合計二五〇万三五七一円)の交付を受けてこれを騙取した

2 同年七月九日ころ、右猪谷らから、同区神宮前〈番地略〉株式会社東海銀行原宿支店の被告人A名義の普通預金口座にCの後遺障害保険金名下に七五〇〇万円の振込送金を受けてこれを騙取した。

3 別紙一覧表(二)記載のとおり、同年八月三日ころ及び同月五日ころ(アメリカ合衆国太平洋標準時)の二回、いずれも、右猪谷及び同人から依頼を受けたアメリカン・インターナショナル・アンダーライターズ・インコーポレイテッドをして、被告人A及びCの両名が前記のとおり受傷した際に治療を受けたロスアンジェルス市ノース・ステイト・ストリート一二〇〇番地所在の南カリフォルニア大学メディカルセンターに対し、右両名の治療費用保険金名下に、同社振出名義の小切手合計二通(金額合計二万四〇四四ドル八六セント)を交付させてこれを騙取した

二  同年二月二三日ころ、東京都千代田区有楽町〈番地略〉の第一生命保険相互会社(代表取締役西尾信一)契約奉仕部奉仕課あてに、Cが昭和五六年一一月一八日(アメリカ合衆国太平洋標準時)にアメリカ合衆国カリフォルニア州ロスアンジェルス市内で何者かに銃撃されて廃疾状態に陥った旨内容虚偽の事実を記載した事故証明書兼事故状況報告書等を郵送し、さらに、昭和五七年三月一一日ころ、同課あてに、C名義の保険金支払請求書等を追加郵送した上、かねて被告人Aが同社との間に締結していた被保険者をCとする集団定期保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、前記奉仕課長牛込一雄をして、その旨誤信させ、よって、同月一六日ころ、同人から、被告人A管理にかかる前記株式会社東海銀行原宿支店のC名義の普通預金口座に同女の廃疾保険金等名下に三〇〇二万四三七円の振込送金を受けてこれを騙取した

三  同年三月二日ころ、前記フルハムロードの事務所において、千代田生命保険相互会社(代表取締役中島正男)に対し、前同様内容虚偽の事実を記載した被告人A名義の高度障害保険金支払請求書等を同社所属の外務員榊田れい子を介して提出した上、かねて被告人Aが同社との間に締結していた被保険者をCとする定期保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、同社契約奉仕部保険金課長金森友男をして、その旨誤信させ、よって、同月二四日ころ、同人から、前記株式会社東海銀行原宿支店の被告人A名義の普通預金口座にCの廃疾保険金等名下に五〇〇三万四円の振込送金を受けてこれを騙取したものである。

第四  動産保険金詐欺の犯罪事実

被告人Aは、フルハムロードの代表取締役であるが、同社所有の商品であるパームツリー型ランプなど在庫品計一三点(時価合計三三万八六〇〇円相当)をその従業員土肥俊雄らをして故意に破損させたものであるにもかかわらず、これを秘し、あたかもこれが偶然破損したかのように装って、保険金名下に金員を騙取しようと企て、昭和五六年一二月二一日ころ、同社の前記事務所において、アメリカンホームに対し、右在庫品一三点を含む合計九五点のフルハムロード所有の商品(時価合計一四八万五五〇〇円相当)がすべて偶然破損した旨内容虚偽の事実を記載した事故報告書をアメリカンホームの代理店を営む日下祐二を介して提出し、かねてフルハムロードがアメリカンホームとの間に締結していたこれらの商品に関する動産総合保険契約に基づく保険金の支払いを請求し、同社の管理部長古瀬喜八郎をして、その旨誤信させ、よって、昭和五七年一月一一日ころ、フルハムロードの前記事務所において、同人から、右日下を介して、動産保険金名下に、アメリカンホーム振出名義の小切手一通(金額三七万一三七五円)の交付を受けてこれを騙取したものである。

第五  被告人Dの犯罪事実

被告人Dは、法定の除外事由がないのに、昭和五七年五月一四日ころから昭和六二年九月二九日までの間、大阪府豊中市螢池西町〈番地略〉の自己管理の倉庫内において、二二口径ライフル銃一丁(〈押収番号略〉)及び火薬類であるライフル銃用実包一〇〇発(〈押収番号略〉、ただし、うち一五発は鑑定のため試射済み。)を隠匿、所持したものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(Aに関し前記の各事実を認定した理由)

第一  殺人事件及びこれに関連する保険金詐欺事件について

本件殺人事件及びこれに関連する保険金詐欺事件について、A及びAの弁護人は、AがC殺害に関与したことは全くなく、むしろAはCとともに強盗に襲われ銃撃された被害者であり、したがって保険金の取得も正当なものであった旨主張しているので、以下、当裁判所が前記のとおり認定した理由を説示することとする。

(なお、以下の説示において証拠を引用する場合、当公判廷における供述が証拠となる場合も、公判調書中の供述部分が証拠となる場合も区別することなく、単に「○○の公判供述」といい、証拠書類については、謄、抄本により取り調べがなされた場合であっても、原本により取り調べがなされた場合と同様、単に「○○の検察官調書」などと表示し、その一部のみが取り調べられた場合であっても、「○○部分を除く。」などと特に断らないことにする。証拠の末尾に記載する甲、物、弁A、弁Bは、それぞれ本件記録中の証拠等関係カード記載の検察官請求の甲、物並びにAの弁護人(A)及びDの弁護人(B)各請求の証拠を示すものとする。)

一  事案の概要(おおむね争いのない事実)

以下の事実はおおむね争いがなく、関係各証拠によって明らかに認められる。

1 Aは、昭和五四年七月、本件殺人事件の被害者であるCと結婚し、翌五五年九月には長女C1が生まれた。AはCとの結婚後、昭和五五年一月一日付けで、第一生命保険相互会社との間において、Cを被保険者、Aを受取人とする死亡時保険金額一五〇〇万円(災害死亡時三〇〇〇万円)、保険期間五年、保険料掛け捨ての集団定期保険契約(前記①の保険契約)を、昭和五六年二月一日付けで、千代田生命保険相互会社との間において、Cを被保険者、Aを受取人とする死亡時保険金額二五〇〇万円(災害死亡時五〇〇〇万円)、保険期間一〇年、保険料掛け捨ての定期保険契約(前記②の保険契約)をそれぞれ締結した。

2 Aは、昭和五六年一一月一六日ころ、かねてからAが海外に出張する際に海外旅行傷害保険契約を結んでいたアメリカンホームの営業社員である日下祐二に依頼して、同社との間において、被保険者をC、受取人を法定相続人(A及びC1)とする保険金額七五〇〇万円、保険期間昭和五六年一一月一七日から七日間の海外旅行傷害保険契約(前記④の保険契約)を締結した(なお、同時に被保険者をA、受取人をフルハムロードとする右と同一内容の海外旅行傷害保険契約も締結している。)上、翌一一月一七日、Cを伴って新東京国際空港からロスアンジェルス国際空港に向けて出発し、現地時間の同日午後零時四五分ころ、同国際空港に到着した。

ロスアンジェルスに到着すると、Aは、空港近くのレンタカー会社からフェアモントを借り受け、これを運転して、Cとともに宿泊先であるロスアンジェルス市西セブンス通り〈番地略〉所在のシティーセンターモーテルに行きチェックインした。

3 翌一一月一八日朝、Aは、フェアモントにCを同乗させてシティーセンターモーテルを出発し、写真を撮りながらロスアンジェルス市内を走り回った後、同日午前一一時ころ、本件殺人事件の現場である北フリーモント通りに面したオフセット駐車場に至り、そこにフェアモントを停車させてCとともに車から降り、同所付近で写真を撮るなどしていたところ、Cが左顔面を、Aが左足を銃撃されるという事件が起こった(以下右事件を「銃撃事件」ともいう。)。

4 その後、AとCは、南カリフォルニア大学(USC)メディカルセンターに搬送されたが、Cは脳挫傷で意識不明の状態が続き、昭和五七年一月二〇日に日本に移送され、東海大学病院で治療を受けたが、その後も意識を回復することなく同年一一月三〇日、同病院において前記銃撃による脳挫傷が原因で死亡した。

5 Aは、右銃撃事件によってA及びC両名が負った傷害の治療費、破損・紛失した携行品、Cの後遺障害に関する保険金として、アメリカンホームから、前記「認定した事実」第三の一記載のとおり合計七七五〇万三五七一円及び二万四〇四四ドル八六セントを、またCの廃疾保険金等として、第一生命保険相互会社から、同第三の二記載のとおり三〇〇二万四三七円を、千代田生命保険相互会社から、同第三の三記載のとおり五〇〇三万四円をそれぞれ受け取った。

二  銃撃事件の状況について

1 Aの供述内容

銃撃事件の状況について、Aは、おおむね次のとおり供述している。

「私は、フルハムロードで扱っている衣料品などにプリントする図柄の参考にするため、カリフォルニアのイメージがよく分かる写真(パームツリー、広告、標識等)を撮る目的で、Cとともに事件当日の朝九時ころフェアモントに乗ってモーテルを出た。その後、ロスアンジェルス市内を写真を撮りながら走り回っていたが、Cが形のよいパームツリーを見つけたので、その写真を撮るためにその近くへ行き、本件現場である北フリーモント通りに面したオフセット駐車場のそばにフェアモントを止めた。私は、Cと車を降り、互いに写真を撮っていた。その間、何台かの車が通りかかり、そのうちの何台かは私たちが写真を撮っているのを見て一時的に止まってくれた。その中には白っぽいバンもあったと記憶しているが、それ以外には現場付近に白いバンがあったという記憶はない。私は、ロスアンジェルスの高層ビル群とヤシの木とその下にたたずんでいる女性を撮れば絵になると思い、Cを右駐車場の南東入口に立たせ、私は駐車場の奥の金網ぎりぎりのところまで下がり、カメラのファインダーをのぞきながら、Cに対して立つ位置を指示していた。その時、突然Cが鉛筆が倒れるように九〇度に倒れた。多分ファインダー越しに見たものと思う。銃声も聞こえなかったので、私は、すべって転んだのかと思って、Cの方へ行こうと一、二歩動き出すか出さないかというところで、銃声が聞こえ、左足に痛みを覚えた。私は、うしろに尻餅を着くような形で倒れた。そして、私が道路側を見ると、グリーンの車が北向きに止まっており、その運転席側にいた男が車の中に何か一メートル前後の細長いものを投げ入れて私の方に向かってくるのが見えた。その男は、私のところまで来て私の胸倉をつかみ、私の腰のところを蹴飛ばして、私のジーンズの後ろのポケットから現金を奪い取った。それから私がCの方を見ると、グリーンの車の助手席から出てきたもう一人の男がCの近くでCのポシェットを引っ繰り返して中のものを出していた。それから二人の男は、グリーンの車に乗って北に向かって走り去った。その後、私は、車を伝いながら、Cの近くまで行き、Cの名を呼んだりしていた。その時、一人の女性が通りかかったので、私は助けてくれるように叫んだが、その人は私たちの方に近寄ってのぞき込むようにしたが、そのまま立ち去ってしまった。それから、私は助けを求めるため、フェアモントの助手席に乗り込みクラクションを鳴らし続け、その結果一人の人が近づいてきて、どこかに連絡に行き、その後、救急車やパトカーが来た。」

2 銃撃事件の状況についてのおおむね争いのない事実

以下の事実はおおむね争いがなく、関係各証拠によって明らかに認められる。

(一) 銃撃事件が発生した現場は、ロスアンジェルス市内のダウンタウン近くをほぼ南北に走る北フリーモント通りに沿ってその西側に位置する駐車用空地(オフセット駐車場)であり、その東側には広大な野外駐車場があり、また西側は北フリーモント通りと平行して走るハーバーフリーウエイとなっている。後述するロスアンジェルス市水道電力局ビルはオフセット駐車場の東方に位置し、同ビル八階と同駐車場との直線距離は約二五〇メートルである。

(二) Aは、フェアモントにCを同乗させて北フリーモント通りを北から南に走って来て本件駐車場に至り、その東端の部分(北フリーモント通りとの境の辺り)に北フリーモント通りとほぼ平行(若干車体の前部が西に振れるような状態)に南向きに駐車した。

当時、本件駐車場には六台の乗用車がその車体の前部または後部をほぼ東西方向に向けて並列駐車していた。AとCは、フェアモントを降りて、その付近で写真を撮るなどし、その際、Aが北フリーモント通りを横断して同通りの東側の椰子の木の近くに行き、Cがその写真を撮ったことがあった。

その後Cは、左顔面に銃弾を受けてその場に倒れ、Aも左大腿部に被弾し、その場にうずくまった。

このとき、前記水道電力局ビルの八階から数人の者がAが沈み込むのを目撃し、目撃者らはAが車から何かを盗むのではないかと思って、警察に通報した(この時間が午前一一時七分である。)。

その後、本件駐車場から約三〇メートル離れた北フリーモント通り東側沿いにあるじゅうたん倉庫の中にいたシャーマン・ソルターがAの叫び声を聞いて外に出たところ、叫んでいるAと倒れているCを発見し警察に通報した(この時間が午前一一時八分である。)。

(三) その後、午前一一時一五分ころまでに、グレン・ジェインズ消防士らが乗車した消防車、リチャード・カンザキ及びダニー・コントレラスの乗車したパトカー、ペリー・バーンズ及びトーマス・ウオンが乗車したパトカーが順次到着し、Cの救護、現場の保存、Aからの事情聴取などに当たった。午前一一時二五分ころ救急車が到着し、Cはこれに乗せられて、前記USCメディカルセンターに運ばれ、Aも後から来た救急車で同センターに運ばれた。

3 目撃者の目撃した銃撃事件及びその前後の状況

前記水道電力局ビル八階から本件銃撃事件及びその前後の状況を目撃したデニス・アルガイヤー、コーネリウス・ニーリー、ウェイン・ギルバート・イェシド及びアーサー・ニエトの各供述を総合すると、以下の事実が認められる。

(一) 本件バンの存在について

本件銃撃事件の直前ころ、フェアモントの東隣に白色の貨物用バンが北フリーモント通りとほぼ平行して南向きに駐車していた。右バンはフェアモントよりもやや南に位置し、東側から見ると右バンによってフェアモントの前部が隠れるような状態であった。

なお、Aは、写真を撮っているときに停止してくれたバンがあった以外は本件駐車場付近に白っぽいバンが存在したことは記憶にない旨供述するが、右目撃者四名はいずれも、事件直後から一貫して白色のバンが本件駐車場に駐車していた旨供述しており、その駐車位置についても、全員がほぼ一致して前記のとおりであったと述べているのであるから、本件銃撃事件の直前ころ、本件駐車場の前記位置に白色のバンが駐車していたことは明らかである。また、目撃者らが目撃した右バンが、その駐車位置や後に述べる本件バンが駐車していた時期・時間からして、Aが供述するところの停車してくれた白いバンと異なることも明らかである。

(二) フェアモントが本件駐車場に停車した時期について

アルガイヤーは、公判廷で、「本件駐車場に白いバンが先に駐車していて、その後に栗色の車が来て右バンの西側に止まった。」旨供述しているところ、同人は、事件直後のバーンズの事情聴取(バーンズの公判供述、FIカードの写し―〈書証番号略〉)の際にも、一九八一年一一月二五日付けの事情聴取書(〈書証番号略〉)、一九八六年一月一〇日の事情聴取書(〈書証番号略〉)、さらには一九八八年六月九日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)においても、一貫して、前記公判供述のとおり、バンが先に存在したと供述している(なお、一九八一年一二月一七日付けの事情聴取書(〈書証番号略〉)には「白いバンが駐車しているのとその隣に栗色の車が駐車しているのを見た時……。」との供述記載があるが、右記載が前記アルガイヤーの供述と矛盾するものでないことは明らかである。)。また、アルガイヤーは、目撃者らのうちで誰が最初に本件駐車場に注目したかについて、「バンの西側にフェアモントが止まったので、二台の車の間で物の移転等何らかの接触があるのではないかとニエトに話した。」(公判供述)、あるいは「バンに気付いて、何か違法なことが起きようとしているのではないかと疑い始め、ニエト及びニーリーにも注意を促した。」と供述している(一九八六年一月一〇日の事情聴取書―〈書証番号略〉)ところ、ニエト及びイェシドも、アルガイヤーに注意されて初めて本件駐車場の方を見た旨供述している(ニエトの宣誓供述書――〈書証番号略〉、イェシドの宣誓供述書―〈書証番号略〉、同人の公判供述)。

以上によれば、アルガイヤーの供述は、本件バンがフェアモントより先に本件駐車場に駐車していたとの点において終始一貫している上、アルガイヤーが最初に現場に注目したとの点においてニエト及びイェシドの供述と一致し、さらに、右のとおり、現場に注目した理由も具体的に述べているのであるから、アルガイヤーの右供述は信用性が高いと言うべきであり、したがって、同人の供述どおり、本件バンが先に本件駐車場に駐車していて、その後にフェアモントが来てバンの西隣に停車したと認めるのが相当である。

なお、イェシドは、公判廷で「バンがフェアモントよりも後から来た。」旨供述し、一九八四年三月二七日の電話での事情聴取書(〈書証番号略〉)、一九八六年一月八日の事情聴取書(〈書証番号略〉)及び一九八九年七月一一日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)においても同様の供述をしているが、一方、一九八二年二月一日付けの事情聴取書(〈書証番号略〉―AIU依頼のもの)においては、「後で小さな赤い車が走ってきて、バンのそばに止まるのを見た。」旨、また一九八八年六月八日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)においては、「どちらが先に到着したか思い出せない。」旨の供述しているのであって、その供述自体変遷している上、前記のとおり、イェシドはアルガイヤーの声を聞いて外を見るようになった旨供述していることからすると、イェシドの供述中、フェアモントの後から本件バンが来たとする部分は信用できない。

また、ニエトは、一九八九年九月一一日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)において、「マルーン色の車が既にそこに駐車していて、五分程すると、白いフォードのバンがやって来た。」旨供述しているが、一方、一九八六年一月八日の事情聴取書(〈書証番号略〉)及び一九八八年六月一四日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)においては、「どちらが先に来たか分からない。」と供述しているのであり、前記のとおり、ニエトもアルガイヤーに声をかけられて現場を見たものであることも考慮すると、本件バンがフェアモントの後から来たとするニエトの前記供述も信用できない。

(三) Cの被弾時の状況について

目撃者四名は、いずれもCが被弾した状況を目撃していないところ、Cが被弾したときに立っていた位置は後述のとおりであり、目撃者らは本件バンが邪魔になってCが被弾した状況を目撃できなかったものと考えられる。

(四) Aの被弾時及びその前後の状況について

目撃者四名は、一致して、Aが、駐車していた六台の車のうち二台の車の間辺りで倒れた旨供述し、また、右二台の車については、アルガイヤーが青色の車とオレンジ(または黄色)の車である旨供述しているところ、ジョン・リース撮影の写真(〈書証番号略〉)によると、右二台の車は南から三台目と四台目の車であり、他の目撃者の供述とも符合するので、Aが被弾したのは、南から三台目と四台目の車の間辺りであるものと認められる。

また、目撃者四名はいずれも、二台の車の間でのAの動きについて、「倒れた。」、「沈むかのように倒れた。」、「突然沈んだ。」、「突然うずくまった。」、「かがみ込んだ。」などと同様の趣旨の供述をしているところ、Aが左足に被弾したことからすると、Aは被弾直後に倒れ込んだものと考えるのが合理的であり、目撃者らのこれらの供述は、いずれもAが被弾した時の状況を表現しているものと認められ、したがって、目撃者らはいずれも、Aが被弾したときにAの方を見ていたものと認められる。また、目撃者らの供述によれば、Aは被弾時に東側を向いていたこと、被弾して倒れてから助けを求めるように片手を上下に振るような動作をしたことが認められる。

なお、弁護人は、目撃者らの目撃位置は実況見分(〈書証番号略〉)の時よりも一四メートル以上南であったのであり、右位置からの目撃状況が明らかではない旨主張するが、写真撮影報告書(〈書証番号略〉)貼付の写真によると、目撃位置が実況見分の時より一四メートル南にずれても、目撃状況に顕著な変化はなく、Aがいた位置も十分見通せるものと認められる。

(五) 本件バンが走り去った状況について

アルガイヤーは、銃撃事件直後のバーンズによる事情聴取(バーンズの公判供述)時から一九八八年六月九日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)における供述に至るまで一貫して「Aが倒れてからバンが走り去った。」旨供述し、ニーリーも、公判廷で、「Aが倒れた後にバンが走り去った。」旨供述するとともに、一九八八年六月九日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)、一九八九年七月一一日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)においても同旨の供述をしていること、目撃者四名はいずれもCが被弾して倒れる場面を目撃していないが、これは前述のとおりバンが邪魔になって目撃できなかったものと考えられるのであるから、少なくともCが被弾するときまではバンは本件駐車場に存在したものと推認されるところ、Aの供述によると、Aが被弾したのはCが被弾した直後であるというのであるから、Aが被弾したときにもバンが本件駐車場に存在したことは明らかである。

以上からすると、本件バンが走り去ったのは、Aが被弾して倒れた後であると認めるのが相当である。

なお、アルガイヤーは、公判廷では、「バンが走り去った場面ははっきり覚えていない。」と供述しているが、この供述は、単にバンが走り去った場面の記憶が薄れたため「はっきり覚えていない。」という趣旨と解され、もとより右認定と抵触するものではない。また、イェシドは一九八四年三月二七日付けの事情聴取書(〈書証番号略〉)において、「バンが走り去ってから男が倒れた。と述べているが、右事情聴取は電話によるものである上、その内容も極めて簡単であり、イェシドのその他の機会における供述とも食い違っていることからすると、イェシドの右供述は信用できない。

(六) Aが供述するグリーンの車と二人組の男について

前述したとおり、Aはグリーンの車に乗った二人組の男の強盗に襲われ銃撃されたものであると述べているところ、アルガイヤー及びニーリーは一貫して事件前後にグリーンの車は全く見ていない旨供述している。そして、イェシド及びニエトは当初よりグリーンの車を見たと供述してはいるが、それはAが倒れた後に北フリーモント通りを通ったものであり、またUターンしたり現場付近でスピードを緩めたことはあったが、現場付近で停車したことや中から人が降りてきたことはなかったと供述している(なお、イェシドは、一九八九年七月一一日付けの宣誓供述書(〈書証番号略〉)において、男が倒れる前にグリーンの車が通った旨述べているが、その他の機会におけるイェシドの供述はいずれも男が倒れた後にグリーンの車が通ったことで一貫していることからすると、右供述は信用できない)。したがって、イェシドやニエトが、Aの供述するような状況でグリーンの車が停車し、発車するのを目撃していないことは明らかである。また、目撃者は四名とも、Aの供述する二人組の男を目撃していない。

そこで、次に、目撃者らがAの供述するグリーンの車や二人組の男を見落とす可能性があったか否かを検討する。

まず、前述したとおり、目撃者四名はいずれも被弾して倒れるAを目撃しているところ、アルガイヤー、ニーリー及びイェシドはいずれも、Aが倒れた後二台の車の間で手を振っている状況を目撃しており、また、Aが倒れた後、Aが泥棒かも知れないと思って警察に通報までしていることからすると、右三名はAが倒れたことによってAに対する関心がさらに高まり、倒れてからもなおAの方を注目していたものと認めるのが相当である。また、四名の目撃者はいずれも、Aが被弾した後に北フリーモント通りを南に向かって歩いていた女性を目撃しており(右女性の存在についてはA自身が詳細に供述している。)、少なくともその時点までは現場に注意を払っていたことが認められる。他方、Aの供述によると、二人組の男のうちの一人はAが被弾した直後にAに近づいて来てAから現金を強奪したというのであるから、前述のような目撃者の目撃状況からすると、このように被弾直後にAに接触した男の存在を目撃者が見落とすことはあり得ない(なお、現場は目撃位置から約二五〇メートル離れているが、実況見分調書(〈書証番号略〉)貼付写真の拡大写真(〈書証番号略〉)及び目撃者らの公判供述からすると、Aの動静やAに近づく人間を十分に認識できるものと認められる。)。

さらに、Aの供述によると、グリーンの車はフェアモントの近くに停車し短時間で再び発車したというのであるが、現場が目撃位置から約二五〇メートル離れており目撃者らがAに注目していたことを考慮しても、グリーンの車は当然目撃者の目に入る位置に存在していたのであるから、目撃者らがこのようなグリーンの車の動きを目撃していないということは考えられない(なお、目撃者の一部がそのころ通ったRTDバスに気付いていないとしても、単に通りを普通に走行する車と、現場まで走ってきて停車し短時間で再び発車するという異常な動きをする車とを同様に考えることはできない。)。

Aの弁護人は、目撃者らが前記ソルターらの行動について一部事実と異なる供述をしている点及び目撃者らは誰も被弾後にAがフェアモントのそばで救助を求めているのを目撃したと供述していない点を指摘する。この点、ソルターらの行動についての目撃者らの供述がある程度事実と矛盾していることは認められるが、弁護人主張のように事実と顕著に異なっているとまでは言えず、右の程度の事実との齟齬があるからといって、右認定に影響を及ぼすものとは認められない。また、被弾後にフェアモントのそばに立ったというAの動きについても、Aが倒れてから車の間を移動するという一連の動きの中で見ると特に目新しい動きではなく、また、捜査上もそれほど重要な事実とも思われないことからすると、事情聴取書等に右の点についての供述記載がないことをもって、目撃者らがその時現場に注目していなかったとは言えない。

以上を総合すると、Aの供述するようなグリーンの車及び二人組の男は存在しなかったものと認めるのが相当である。

なお、目撃者ら四名は、いずれもバン以外には本件直後に現場から立ち去った人や車両を目撃していない。

4 Cの被弾時及びその前後の状況

本件直後に現場に駆けつけた前記ソルター、ジェインズ、コントレラス、カンザキ、バーンズらはCが倒れているところを目撃し、その位置について供述しているところ、これによると、倒れているCの頭部は六台の駐車車両のうちの南から三台目の車の後部の近くに位置し、Cの足は東もしくは東南方向に向いていたことが認められる。そして、Cが顔面に被弾した後、ずっと意識不明の状態であったことからすると、被弾して倒れたCが大きく移動することは考えられないから、Cが被弾する際に立っていた位置は、バンの西側でフェアモントの南側辺りと認めるのが相当である。

5 銃撃場所及び銃撃の実行犯人

まず、Aの供述するところのグリーンの車及び二人組の男が存在しないことは前述のとおりである。

裁判所の検証調書によると、Aの被弾部位は左大腿部の左前辺りと認められるところ、前記のとおり、Aは被弾時に本件駐車場に駐車していた六台の車のうちの三台目と四台目の車の間に東方向を向いて立っていたのであり、かつ、その東方には本件バンとフェアモントが北フリーモント通りとほぼ平行に停車していたのであるから、Aの右部位を銃撃することのできる位置は、Aのほぼ東方で、かつ、本件バンの西側(もしくはその中)である可能性が最も高い。

他方、Cを銃撃した位置については、Cがどちらを向いて立っていたか不明であるので直ちにこれを特定することはできないが、前述したとおり、Cはバンの西側に立っていてその左頬を銃撃されたものであること、Cの左頬の地上からの高さはバンの車高よりもかなり低いこと、Cは被弾して西方向に倒れたことなどからすると、狙撃者は、Cのほぼ東方で、かつ、本件バンの西側(もしくはその中)からCを銃撃した可能性が最も高い。

そして、トーマス・ノグチ作成の鑑定書(〈書証番号略〉)によると、Cを銃撃した銃器とAを銃撃した銃器は同一のものと推認されること、Aは、AとCはほぼ同時にまたは極めて接近した時間に銃撃されたと述べていること、目撃者四名がいずれも狙撃者を目撃していないことなどを合わせ考慮すると、狙撃者は、A及びCのほぼ東方で、かつ、本件バンの西側(もしくはその中)から、A及びCを銃撃したものと認められる。

そして、前述のとおり、Aが被弾して倒れた直後にバンが走り去っていること、目撃者らはバンの他に事件直後に本件現場付近から立ち去って行った車や人を目撃していないこと、バンは本件銃撃の状況を東側から目撃されるのを避ける役割を果たしたものと考えられることなどからすると、バンに乗車していた者が本件銃撃事件の実行犯人であると認められる。

6 Aの供述の信用性及びAの犯人性

以上を前提にAの供述について検討すると、Aの供述するグリーンの車及び二人組の男が存在しないことは前述のとおりであるが、Aは、本件直後からほぼ一貫してグリーンの車に乗った二人組の男の強盗に襲われた旨述べており、その供述内容も詳細かつ具体的である。したがって、Aが本件のような銃撃を受けて気が動転していたであろうことを考慮しても、Aが全く存在しないグリーンの車や二人組の男を存在したものと誤信して述べたということはおよそ考えられず、Aが故意に虚偽の事実を述べてきたことは明らかである。また、前述のとおりAは、目撃者が供述している白色のバンを見ていない旨供述しているが、Aの運転するフェアモントが、駐車している右のバンのすぐ隣に割り込むような形で駐車していること、被弾した際、CはAから見てバンの前に立っていたことなどからすると、Aがバンの存在に気付かない可能性はなく、Aは故意にバンの存在を秘匿しているものと認めるのが相当である。

以上述べたとおり、Aは、A及びCを銃撃したのはグリーンの車の二人組の男の強盗犯人であると故意に虚偽の供述をし、また、銃撃の実行犯人と認められる者が乗車していた本件バンについてもその存在を故意に秘匿しているのであって、Aが真に本件銃撃事件の被害者であれば、このような虚偽の供述をする理由も必要性も考えられず、したがって、Aが右のような虚偽の供述をしていること自体、本件銃撃事件は、Aが実際に狙撃した者と共謀の上、自らは被害者を装ってCの殺害を仕組んだものではないかと強く疑わせるのである。

三  本件銃撃事件の犯人がAであることを推認させるその他の事実について

1 いわゆる殴打事件

本件の約三か月前である昭和五六年八月一三日、ロスアンジェルス市所在のホテルニューオータニ二〇一二号室において、Cが後頭部に負傷するという事件(殴打事件)が起こったが、これにつき、Bが、AにC殺害を頼まれてCをハンマー様のもので殴ったものである旨供述しているので、以下、Bの右供述の信用性について検討を加える。

(一) 関係各証拠によって認められるおおむね争いのない事実

(1) Aは、昭和五六年五月上旬ころ、東京都内のホテルで開かれたパーティーの席でBと知り合い、同月下旬ころにはBと肉体関係を持つまでに至り、その後、同女から、別れた愛人のことで悩んでいる旨打ち明けられるや、右愛人の妻にBが妊娠して子供を墜ろしたと嘘を言って慰謝料名下に現金三八万円を出させるなどしたため、次第にBから信頼されるようになった。

(2) 同年七月一四日ころ、Bはアメリカ旅行のツアーの申込みをし、同月二七日ころAからツアーの費用等として現金六〇万円を受け取り、同月三一日ころ旅行会社にツアーの費用約五〇万円を払い込んだ。

(3) Bは、日本時間の同年八月一〇日、渡米の途につき、現地時間の同月一二日にロスアンジェルスに到着し、同市所在のホテルニューオータニにチェックインした。他方、Aは、Cを伴って日本時間の同月一二日にロスアンジェルスに向かって出発し、現地時間の同日夕方ころ、ロスアンジェルスに到着し、ホテルニューオータニの客室二〇一二号室に入った。

(4) Bは、同月一三日午後六時過ぎころ、AとCが泊まっているホテルニューオータニ二〇一二号室に赴き、一人で部屋の中にいたCにドアを開けてもらって室内に入り、その後、Cは後頭部を負傷するという事件が起こった。

そのころ、Aは、同ホテル一階のコーヒーショップ「カナリーガーデン」において、D、船会社「ハパグロイド」の宮本、米国ニッシンの井原と商談をしていたが、Aに電話がかかっている旨のアナウンスがあったので、Aが近くの電話に出ると、B又はCが、電話でAにすぐ来るように言った。Aは、すぐに二〇一二号室に駆けつけたところ、室内にはBとCがおり、Cは後頭部に負傷していた。Aが部屋に戻った後、Bは部屋から出ていった。

その後、Aは右コーヒーショップまでDを呼びに行き、それから救急車を呼んだが、Cの傷がそれほど大きなものではなかったため救急車は帰ってしまった。そこで、Aらは日系人の医者であるタッド・フジワラに電話をかけてホテルまで来てもらい、同人の車でA、C、Dが病院まで行った。Cは、病院でタッド・フジワラ医師から、後頭部を数針縫うなどの治療を受けたが、その際、けがの原因について「バスルームで転んで頭を打った」などと同医師に説明した。

(5) 翌八月一四日、Bはツアーでハワイに向かい、日本時間の同月一七日に帰国した。他方、A及びCはそのまま数日間ロスアンジェルスに滞在した後、日本時間の同月一九日に帰国した。

帰国後、Aは、アメリカンホームに対して、Cがバスルームで転倒して負傷し、その際着ていた衣服も血で汚れたなどとして、前記の海外旅行傷害保険契約に基づいて治療費等を請求し、同社からその支払いを受けた。

(二) 殴打事件が起こった際の状況

(1) まず、C2、C3及びC5の公判供述並びにC4の供述(〈書証番号略〉)によると、以下の事実を認めることができる。

Cは、帰国した翌日である八月二〇日ころ、Cの自宅を訪ねてきた従姉妹のC5に対して、頭部の傷を見せた上で、その原因について、「ホテルの部屋でルームサービスが来たのでドアを開けて後ろ向きになると、とんかちかハンマーのようなものでいきなり殴られた。殴られた後、揉み合ってそのハンマーを取り上げた。」と述べた。その後、CとC5は、近くの病院に行って、Cの傷の抜糸をしてもらってから、Cの両親であるC4とC3の居住する川崎の実家を訪ねた。Cは、両親に対しても、後頭部の傷について前同様の話をした上で、傷を両親に見せ、この時、C4が、残っている糸を抜いた。C3は、Cから聞いた話をCの双子の妹のC2にも電話で伝えた。それから数日後、Cは川崎の実家を訪ね、同じ日にC2も実家を訪ねてきた。この時、Cは、C2に後頭部の傷を見せた上で、その原因については両親にしたのとほぼ同様の説明をした。その日の夜、CとC2は同じ部屋に布団を並べて寝ていたが、C2が、けがのことを警察に届けなかったことを不審に思ってCに尋ねたところ、CはC2に対し、「Aの知っている女性が洋服屋をしていて、そこの中国服を作らないかと言われ、縫い子さんが夕方来ることになっていた。部屋で待っていると、縫い子さんが来たので、部屋の中に入れて背中を向けると、後ろに痛みを感じた。振り向くとその女性が立っていたので、その人から持っていたものを取り上げた。その女性は、日本語で『ごめんなさい』と言った。」旨、また、警察に届けなかった理由については、「治療費を保険で請求するために、バスルームで転んでけがをしたことにしろとAから言われた。」旨話し、女性から取り上げた物については、「T字型のものでミシンの部品にあるようなもの。」と説明した。さらに、ルームサービスのボーイに殴られたと説明していたことについては、「父がAに対して好感を持っていないので、こんなけがをしたとなるとまたAに対する感情が悪くなるといけないので。」と説明している。これに対して、C2は、そのことを両親に話した方がいいと言ったので、Cは、その晩、両親にも同様の説明をした。

(2) 以上のように、事件の状況についてのCの説明は変遷しているが、前述のとおり、Cが負傷したとき、部屋にはBのほかには誰もいなかったのであるから、ホテルのボーイ云々の話が虚偽であることは明らかであり、また、バスルームで転んだとの話も、Aから言われて医師にそのように説明したものと認められる。これに対して、中国服の女性の縫い子の話は、C2に告白した状況自体がその信用性を裏付けているものと認められるほか、部屋にBがいたこととも符合し、また、当初Cがそのことを両親に隠していた理由も十分に納得がいくものである上、CがC2や両親に対してわざわざ虚偽の説明をする理由も考えられないから、中国服の女性の縫い子に殴られたとのCの説明は信用性が高いものと認められる。

(3) 以上よりすると、殴打事件前後の状況は、おおむね次のとおりであったと認められる。

昭和五六年八月一三日午後六時過ぎころ、Cが前記ホテルニューオータニの二〇一二号室に一人でいたところにBが訪れた。Cは、その日の夕方ころに来ることになっていた中国服の縫い子が来たものと思ってドアを開け、Bを部屋の中に招き入れ、部屋の中でBに背を向けた時に、Bから後頭部をハンマー様のもので一回殴られた。Cが振り向くと、Bがその場にハンマー様のものを持って立っていたので、CはBからこれを取り上げた。その後、CはAを呼ぼうと考え、ホテル一階のコーヒーショップで商談していたAを電話で呼び出し、すぐに来るように言った(なお、直接電話をしたのがCであるかBであるかは不明である。)。Aはすぐに右二〇一二号室に駆けつけ、Aが来てからBは部屋から出ていった。

(三) B供述の信用性

まず、Bの検察官に対する供述調書の内容は、おおむね以下のとおりである。

「昭和五六年七月一〇日ころ、Aから原宿の喫茶店でC殺害の話を持ち掛けられ、その翌日これに応じる旨伝え、その後、車の中、喫茶店、モーテル等でC殺害の相談をした。その結果、犯行が発覚しにくいロスアンジェルスでCの殺害を実行すること、殺害方法については、当初AはBにピストルでCの頭を撃ち、それだけだとA自身も疑われるので、Aの足も撃つように指示したが、Bがこれを断わり、その他いくつかの殺害方法も検討されたが、結局、BがCを撲殺することに決まった。また、凶器はAがロスアンジェルスで調達することとした。そしてこの間Bはアメリカツアーの申込みなどをし、渡米の直前である同年八月六日に、BとAは赤坂東急ホテルで会い、この時にBのツアーの日程表を見て、実行日を自由行動となっている同月一三日に決定した。同日の午前、ロスアンジェルスのホテルニューオータニのBの部屋にAが来て、鉄製のハンマー様のものをBに手渡した。同日の夕方ころ、Aから電話があり、同ホテルの二〇一二号室に赴いてC殺害を実行した。」

Bの検察官に対する右供述内容は、逮捕後の司法警察員に対する供述調書での供述ともおおむね一致し、また、Bは、Aを被告人とする殴打事件(Aに対する殺人未遂被告事件)の証人尋問及び自己に対する殺人未遂被告事件の被告人質問においても、犯行を決意したときの心情や犯行を実行した前後の心理状態などの主観的な面については捜査段階と異なる供述をしているものの、共謀の日時、場所や内容などの客観的な面についてはおおむね右と同様の供述をしている。

このようにBの供述、特にAとの共謀の状況についての供述は、逮捕後はほぼ一貫しており、その内容についても詳細かつ具体的であって、臨場感あふれるものである。また、Bの供述は、前記認定の殴打事件前後の状況にも符合している上、Bがハンマー様のものを携えてCのいる部屋を訪ね、部屋に入るやCの背後からいきなりCの後頭部を右ハンマー様の物で殴打する理由はほかには見出せず、さらにB自身、実刑判決を受ける可能性が高いのに、やってもいない保険金目的の殺人未遂を自分がやったなどと供述することは考えられないから、AにC殺害を頼まれてCをハンマー様の物で殴打したとのBの供述は極めて信用性が高いものと認められる。

なお、B供述については、昭和五九年七月一三日付けの警視総監あての上申書から前述のとおりの供述に至るまでかなりの変遷が見られるが、右変遷は、B自身も供述しているとおり、当初自己の刑責の軽減を図るためにことさらに自己に有利な供述をしたことから、その点を捜査官に追及され、少しずつ真実を話すようになり、最終的に前記検察官調書のような内容になったものと考えるのが最も合理的であり、変遷があること自体が、前記のB供述の信用性に影響を与えるものとは認められない。

(四) B供述の信用性を裏付けるその他の証拠

以上のように、B供述は極めて信用性が高いものと認められるところ、さらにその信用性を裏付けるものとして、Bの友人である清水礼子及びホテルニューオータニ内の土産物屋の従業員である井上昇宗の供述が存在する。

まず、右清水は、Bが渡米の前日である昭和五六年八月九日清水の家に泊まりにきた際に、「人に頼まれてロスアンジェルスに行く。自分にとってはチャンスの仕事で、行きも帰りも旅費を出してもらって、多額のお金がもらえる。内容を言ったら軽蔑すると思う。」などと言い、さらに、「自分の身に何かあったらこれを警察に渡して欲しい。」と言って、七桁位の数字が記載されたメモを自分に手渡した旨供述している(〈書証番号略〉)。他方、Bも、検察官調書において、清水に「ロスアンジェルスに大きな仕事をしに行く。その仕事は危ない仕事で、日本に帰って来れなくなるかも知れない。その時は警察にこれを届けて。」と言って、Aの会社の電話番号を記載したメモを渡した旨右清水の供述と符合する内容の供述をしている(〈書証番号略〉)。そして、右のような清水とBのやりとりは、BがAに頼まれてC殺害のために渡米し、ロスアンジェルスでCを殺害した場合にはAから保険金の半分をもらうことになっていたという状況を裏付けているものと認められる。

次に、右井上は、殴打事件の数時間後に、Bから、AにC殺害を頼まれてCをハンマー様のもので殴打したと告白を受けた旨供述しており(〈書証番号略〉)、他方、Bも、検察官に対する供述調書(〈書証番号略〉)において、井上に犯行を告白した旨供述している。そして、右供述によると、その告白内容は極めて詳細かつ具体的で、事件後数時間で創作できるものとは考えられない上、Bが保険金目的で殺人未遂をしたなどとことさらに虚偽の事実を井上に述べる理由も見当たらず、さらにBが井上に告白したときの状況も故意に嘘を言っているようなものではなかったものと認められるから、Bの右告白内容は信用できるものと認められる。なお、Bが帰国後井上宛に出した手紙(〈書証番号略〉)には「私にとってあのことは忘れてはいけないものと心に決めています。人間として最も大事なものをもう少しで私は失うところでした。」との記載があり、右記載自体は抽象的ではあるが、BがCを殺害しようとしたが失敗に終わったという事実によく符合しており、Bから告白を受けたとする井上供述自体も信用できるものと認められる。

(五) B供述についての弁護人の主張及びその検討

なお、Aの弁護人は、B供述は信用できない旨主張するので、以下、念のため右主張についても検討を加える。

(1) まず、弁護人は、Cの後頭部の傷はBの供述するような犯行態様では生じないものであると主張する。

まず、Cの後頭部の傷の形状及び位置について検討する。傷の治療をしたタッド・フジワラ医師作成のカルテ(〈書証番号略〉)、傷痕を直接見たC5、C3及びC2の公判供述並びにC4の供述(〈書証番号略〉)によると、傷の形状は縦長で長さが三ないし五センチメートル位の直線状の傷で下部の方がやや湾曲しており、位置は、おおむね後頭部のほぼ中央で傷の下の端の部分が後頭部の隆起した部分にかかる位の位置であることが認められる。なお、右タッド・フジワラ医師は、傷の形状について「上下の直線で長さが約1.5センチメートル」、位置については「後頭部の隆起よりもやや下」と供述しているが、これは前記カルテの記載や前記四名の供述とも矛盾する上、何件もの患者を扱っている同医師が数年も前に治療した患者の傷の位置や形状を正確に覚えているものとは考えられないから、同医師の右供述は信用できない。

そして、右認定したCの傷の形状・位置は、Bの供述するような犯行態様、すなわち金属製のハンマー様のものを上から下に振り下ろして後頭部を殴打することによっても生じ得ると認められるから、Bの供述する犯行態様とCの受傷状況とは何ら矛盾しないものと認められる。

(2) 弁護人は、凶器の大きさや形状についてのBの供述が変遷している点をとらえて、B供述は信用できないと主張する。

確かに凶器に関するBの供述、特に凶器の大きさについての供述が大きく変遷していることは否定できないが、供述時点においては事件後かなりの期間が経過していることや、実際に手にとってみるのと絵で書いてみるのとではかなり印象が異なること、金属製でT字型であるという供述の根幹部分では一貫していることからすると、右変遷が必ずしも不自然とまで言うことはできず、他方、前述のとおりCがハンマー様の金属で殴られたという事実は認められるのであるから、凶器についてのB供述が変遷していることをもって、ハンマー様のもので殴ったとするB供述の信用性がなくなるものとは認められない。

(3) 他にも弁護人は、B供述の不自然な点をいくつか指摘しているが、いずれもB供述の信用性に影響を与えるものとは認められない。

(六) 殴打事件のまとめ

以上述べたことによりB供述は信用でき、Aは、Cを殺害するべくBにC殺害を持ち掛け、Bがこれに応ずると、東京都内の喫茶店やホテル等でC殺害の場所、殺害方法、実行日時などを相談して決め、渡米後にBに凶器であるハンマー様のものを手渡し、Bは計画にしたがって、右ハンマー様のものでCを殴打したものと認められる。

2 Aの殺人依頼(福原光治及び水上晴由の公判供述)

(一) まず、福原は、ロスアンジェルスのリトルトーキョーにある「浪花寿司」に板前として勤めていた時にAと知り合った者であるところ、同人は、昭和五六年三月上旬ころシティーセンターモーテルでAと会って、そこで殺人を持ち掛けられた旨供述しており、そのときの具体的状況は、「シティーセンターモーテルの一室で、Aは、犯罪論や完全犯罪について話をした後、『君と組んで犯罪請負の仕事をしようと思う。君はピストルを撃ったことがあるか。人殺しをやらないか。』と持ち掛けてきた。私が、相手や方法、報酬について訪ねると、Aは『君の全然知らない人だ。接点がないから証拠もない。』、『武器は自分が用意する。ピストルもあるし日本刀もある。』、『人殺しに金額はない。絶対に捕まらないなら小額でもやる価値はある。でも相当の金にはなる。』などと言った。また、Aは、『ある人が僕の目の前で殺されて、今、砂漠に埋められている。』などとも言っていた。」というものである。

他方、水上は、昭和五六年一月からフルハムロードに勤めていた者であるが、同人は、同年五月ころ赤坂東急ホテルで二回Aと会い、殺人を持ち掛けられたと供述しているところ、その時の具体的状況は、「一回目は、五月初めころ赤坂東急ホテルの客室で会った。その時Aは、『Cが、ランチマーケットの社長と浮気をして、ランチマーケットに情報を流している。』などという話をした。その後しばらく別な話をした後、Aは、『お前は金のためなら何でもできる人間か。金になる仕事がある。』などと言ってきた。私は怖くなって、とりあえず『考えさせて下さい。』と言ってその場を逃げた。それから二週間位経ったころ、同じホテルの客室でAと会った。Aは、『この前の話だが、やる気があるなら一生食べられるくらいの仕事がある。』などと言った。報酬については、二〇〇〇万という金額がAから出たように思う。それから、車のブレーキを効かなくさせる話も出たが、はっきりと断った。」というものである。

(二) 以上の各供述は、いずれも時期や場所さらにはAとのやりとりの内容も具体的であり、多少の誇張があるにしても福原や水上が全くの創作でこのような話をする理由も見当たらないから、Aは、福原及び水上をホテルに呼び出して、右に述べたような内容の話をしたものと認められる。

もっとも、Aがした話の内容自体は極めて抽象的で、具体的に誰をどうやって殺すのかがまったく明らかにされておらず(なお、水上については、Cの名前が具体的に挙がってはいるが、殺人という点が明示されてはいない。)、また、福原や水上のその後の行動からすると、両名がAの話を本気に受け取っていたかという点も疑わしい。

しかしながら、前述のとおり、Aは、同年の七月には、実際にBに対してC殺害を持ち掛けて現に実行しているのであって、福原や水上に対する話の中にはBに対してC殺害を持ち掛けたときにした話と重なるような内容の話も含まれていることも考慮すると、A自身は、C殺害のための共犯者を物色すべく福原や水上に抽象的に殺人を持ち掛けようとしたものであって、結果的に福原や水上がAの話に対して消極的な反応しか示さなかったので、Aはそれ以上の具体的な話をしなかったものと認めるのが相当である。

(三) 以上よりすると、Aは、遅くとも福原に殺人を持ち掛けた昭和五六年三月ころにはCの殺害を計画しており、その後、水上にもC殺害を持ち掛けたが、いずれも積極的な態度ではなかったので、福原及び水上を共犯者に引き込むことを断念し、あらたにBを共犯者とすることを考え、BにC殺害を持ち掛けたところ、Bがこれに応じたため、これを実行に移したが、結局失敗に終わったことが認められる。

3 右殴打事件及び殺人依頼の動機

AがC殺害を福原に持ち掛けようとした昭和五六年三月までに、前記のとおり、Cを被保険者、Aを受取人とする二つの保険契約(昭和五五年一月一日付けの第一生命保険相互会社との間の死亡時保険金額一五〇〇万円(災害死亡時三〇〇〇万円)のもの及び昭和五六年二月一日付けの千代田生命保険相互会社との間の死亡時保険金額二五〇〇万円(災害死亡時五〇〇〇万円)のもの)が締結されていたことは関係証拠上明白である。ところで、右各保険の内容についてみると、Aの給与が高額でそれに比して保険料が低額であること、長女C1が昭和五五年九月一五日に誕生していることを考慮しても、死亡時合計四〇〇〇万円、災害死亡時合計八〇〇〇万円という保険金額は当時としてはかなり高額であり、無職の主婦に対して掛ける保険としては不自然といわざるを得ない。そして、Aは、右千代田生命保険相互会社との間の保険契約を締結した直後に福原にC殺害を持ち掛けようとしていること、福原及び水上にC殺害を持ち掛けた際に、多額の報酬がもらえることを話していること、Bに対してC殺害を持ち掛けた時には、保険金殺人であることを明示していること、Bとの間でC殺害の謀議が成立した後の昭和五六年八月五日にアメリカンホームとの間でCを被保険者、受取人を法定相続人、保険金額を最高額の七五〇〇万円とする保険契約を締結していることが認められる。

そして、右認定の事実によれば、AはCの生命保険金の取得を目的としてCの殺害を計画し、福原、水上及びBにC殺害を持ち掛け、Bにこれを実行させたことが明らかである。

四  本件銃撃事件の結論

1  以上述べてきたところを総合すると、本件殺人事件に関し、次の事実が認められる。

(一)  Aは、妻のCに掛けた生命保険金の取得を目的として、遅くとも昭和五六年三月ころにはCの殺害を計画し、そのころ福原に、同年五月ころ水上に、それぞれC殺害を持ち掛けようとしたが、両名が消極的な態度を示したのでこれを共犯者とすることをあきらめた。その後同年七月上旬ころBにC殺害を持ち掛けたところ、同女がこれに応じたことから、同女と殺害場所、方法、日時等について謀議を行い、当時既に締結していたCを被保険者とする二つの生命保険契約(死亡時保険金合計四〇〇〇万円、災害死亡時には合計八〇〇〇万円)に加えて、アメリカンホームとの間でCを被保険者、受取人を法定相続人とする海外旅行者傷害保険契約(限度額七五〇〇万円)を締結した。そして、同年八月一三日ロスアンジェルス市所在のホテルニューオータニ二〇一二号室において、Bがかねての計画どおりCの後頭部をハンマー様の凶器で殴打したが、結局Cを殺害するには至らなかった。なお、場所をロスアンジェルスとしたのは、日本で実行するよりも犯行が発覚しにくいと考えたことによるものであり、また、Aは、Bに対して、強盗に見せかけて実行するよう指示した。

(二)  その後、同年一一月一六日ころ、Aは、アメリカンホームとの間で再びCを被保険者、受取人を法定相続人とする海外旅行者傷害保険契約(限度額七五〇〇万円)を締結し、翌一一月一七日Cとともにロスアンジェルスに渡米した。翌一一月一八日、ロスアンジェルス市内の本件駐車場において、Cが左顔面を銃撃されるという事件が起こり、そのとき一緒にいたAも左大腿部に被弾した。Aは、このときの状況について、グリーンの車に乗った二人組の強盗に襲われたなどと故意に虚偽の供述をし、また、現場の状況から銃撃犯人が乗っていたものと認められる白色のバンの存在についても、これに気付いていながら故意に秘匿した。

2  以上認定した事実、特に、Aは、本件銃撃事件の前にCを被保険者、Aを受取人とする多額の保険契約を締結していること、本件銃撃事件と殴打事件とは同じロスアンジェルスで起こったものであること、殴打事件は強盗を装ってCの殺害を実行しようとしたものであるが、本件銃撃事件も強盗に襲われたかのような外観を呈していること、本件銃撃事件は、殴打事件の共謀の際、AがBに提案したC殺害方法の一つ(ピストルでCの頭を撃ち、それだけだとA自身も疑われるので、Aの足も撃つ。)と類似していること。殴打事件は保険金の取得を目的としてAがBにC殺害を実行させようとしたものであること、Aは殴打事件の以前からC殺害を計画し、共犯者の物色をしていること、Aが銃撃事件について、前記のとおり、ことさらに虚偽の供述をしていることなどの事実を総合すれば、本件銃撃事件は、実際にCを銃撃して殺害した実行犯人の特定を待つまでもなく、Aが、Cに掛けられた生命保険金等の取得を目的として、実行犯人と共謀の上、Cを本件駐車場まで連れ出し、右駐車場で白色のバンに乗って待ち受けていた実行犯人にCを銃撃させるとともに、Cだけが銃撃されたのでは不自然であるから自らの足も銃撃させて、Cを殺害したものと優に認めることができる。

(なお、本件殺人の公訴事実は、AがDと共謀の上、Cを殺害したというものであるところ、当裁判所は、前記のとおり、氏名不詳者との共謀によるC殺害を認定した。ところで、本件殺人の公訴事実と当裁判所が認定した事実との間に公訴事実の同一性があることは明らかであり、また、いずれの事実においても、AはC殺害の共謀共同正犯とされているのであり、さらに、本件訴訟の経過に鑑みると、このように認定したとしても、Aに、実質的な不利益を与えたり、その防禦権を侵害したりするものでないことは明らかである。したがって、本件殺人事件において、前記のとおり認定するのに、訴因変更の手続きをとることは要しないものと解するのが相当である。)

3 このように、銃撃事件はAが仕組んで氏名不詳の実行犯人に実行させたものと認められるのであるから、これに関連する詐欺事件についても、Aについて詐欺罪が成立することは明らかである(なお、Cを被保険者とする保険契約に基づいて支払われた保険金は、法律上はCが取得することになるのであるが、実際上はAが取得したものと評価できるのであって、右詐欺の成否に影響を及ぼすものではない。)。

第二  動産保険金詐欺について

Aの弁護人は、前記「認定した事実」第四の動産保険金詐欺の事実について、保険金請求をした商品は本件当時すべて破損していた可能性があって、これらの商品の中に保険金請求の対象外のもの、すなわち完全なものがあったとの立証はなく、また、仮にこれらの商品の中に何点かの完全な商品が含まれていたとしても、Aにそれらの商品が完全なものという認識があったとの立証はないから、右動産保険金詐欺の事実については、欺罔行為ないし騙取行為の立証がなく、Aは無罪である、と主張する。

しかし、前掲の関係各証拠によれば、次の事実が認められる。

1  Aは、フルハムロードの代表取締役として、昭和五五年七月以降、数次にわたって、アメリカンホームとの間で、フルハムロードの所有する商品を対象とする動産総合保険契約を締結してきた。右保険契約の内容は、フルハムロードが仕入れた商品を保険契約書記載の倉庫等に搬入した時点からその商品を販売先に引き渡す時点までの間に、偶然の事故によって商品が破損した場合、一事故ごとにその損害をてん補するというものであったが、フルハムロードでは、Aの指示により、かねてから、破損した商品のほとんどをその破損の時期・場所・原因を問わず、すべて段ボール箱に入れて倉庫内に保管しておき、これがある程度たまった時点で、これらがすべて一個の事故によって破損したものであるとして、これらを一括してアメリカンホームに保険金の請求をしていた。

2  昭和五六年一一月初旬ころ、フルハムロードの従業員で主として商品の在庫管理を担当していた田中潤が、右倉庫内の段ボール箱の中に破損品がたまってきたことと、そのころ注文を受けたパームツリーランプを点検した際、在庫品の中に傘と本体のネジが合わないなど破損してはいないが不良品(これらの不良は製造段階に起因するもので、右不良品は本件保険金請求の対象にならないものである。)であるパームツリーランプ、パームテラコッタランプ及びハットランプを合計一〇点くらい発見したことから、Aに右破損品がたまったこと及び右不良品の名称・数量を報告し、その処置方法についての指示を仰ぐとともに、その際、売れ残って長期間在庫になっているいわゆるデッドストック商品(これが本件保険金請求の対象にならないことは明らかである。)として陶器製のシルクハット、ブルームーン、カメラが各一個くらいずつあることをAに報告し、この処置方法についてもあわせて指示を仰いだところ、Aは、右田中に対し、右不良品及びデッドストック商品も故意に破壊して、右破損品とともに、事務所移転の際に偶然破損したことにして保険金請求するように指示した。そこで、右田中は、その日かその翌日ころ、営業部長の土肥俊雄とともに右不良品及びデッドストック商品を故意に破壊し、右破壊した商品を含む破損品リストを作成してAに提出した。

3  右田中及び土肥が故意に破壊した商品は、不良品としてはハットランプ三点(単価二万七〇〇〇円、合計八万一〇〇〇円、いずれもフルハムロードの販売価格、以下同じ。)、パームツリーランプ六点(単価三万二〇〇〇円、合計一九万二〇〇〇円)、パームテラコッタランプ一点(二万四〇〇〇円)、デッドストック商品としてはカメラ一点、シルクハット二点(単価一万四九〇〇円、合計二万九八〇〇円)、ブルームーン一点(一万一八〇〇円)、合計一四点(販売価格合計三三万八六〇〇円、ただし、カメラを除く。)であった。

4  そこで、Aは、同年一二月二一日ころ、故意に破壊した右各商品(右カメラについては請求漏れ)一三点を含む商品合計九五点について、本社倉庫より新事務所への移動中等に偶然破損したものであるとしてアメリカンホームに対して保険金を請求し、昭和五七年一月一一日ころ、保険金として三七万一三七五円(販売価格の四分の一)を受け取った。

なお、右不良品のうちパームツリーランプ及びパームテラコッタランプ各一点には傷がついていたが、その傷は値引きすれば販売可能な程度の些細な傷であって、事実これらの商品は在庫商品として右破損品とは別に保管されていたものであること、些細な傷のある商品について、これが保険金請求の対象となるかどうかは本来保険会社の査定をまって始めて明らかになるものであるから、右の査定をまたず、故意に破壊して保険金請求することが許されない(詐欺罪に該当する)ことは明らかである。

以上の事実が認められる。

右各事実によれば、Aが保険金請求した九五点の商品のうち、右一三点の商品は本来保険金請求の対象にならない商品であることは明らかであり、Aがその事実を認識していたことも明らかである。なお、右各事実は主として、証人田中及び同土肥の各供述を総合して認定したものであるが、Aの弁護人は、右各証人の供述は、故意に破壊したとする商品の性質(不良品かデッドストックか)、数量などに食い違いがあって信用できないと主張する。

しかし、右証人両名の各供述は、Aの指示によって本来保険金請求の対象とならない商品を故意に破壊して保険金請求したとの点で一致していること、証人水上も右事実を裏付ける供述をしていること、証人田中及び同土肥の各供述は、故意に破壊したとする商品の性質(不良品かデッドストックか)、数量(十数個か二、三個か)などが食い違っているかの如くであるが、両証人とも故意に壊したとする商品の中にはデッドストックも不良品もあった旨、また証人土肥はその数量について同じ機会に田中が壊したかどうか、またその数は分からないと述べているのであって、右の各点についても右各証人の供述に食い違いはないこと、その他特に右各証人の供述の信用性を疑わせるような事情はないことなどを総合勘案すれば、各証人の供述は十分信用できるものというべきである。

また、Aの弁護人は、Aがわずかな金額を騙取するために、強いて従業員に指示して、傷のない商品を故意に破損させたと考えること自体不自然不合理であって、本件動産保険金詐欺には合理的な動機が存在しないと主張する。

しかし、前掲の関係各証拠によると、Aは、本件の前にも本件と同様本来保険金請求の対象とならない商品を故意に破壊して保険金請求していること、本件の保険金額は結果的には商品の販売価格の四分の一とされたが、Aが保険金請求した当初は、Aとしては商品の販売価格の二分の一(原価相当額、商品によっては原価を上回る額)が保険金として取得できるものと認識していたこと、したがって、売れ残って長期間在庫となっているデッドストック商品や返品・修理等に手間暇のかかる不良品について原価相当額だけでも回収できれば実質的には利益を得たと言えることなどの事実が認められ、これらによれば、本件保険金請求には十分合理的な理由があったと言うべきである。

よって、Aの弁護人の主張はいずれも理由がない。

(法令の適用)

一  被告人A

被告人Aの判示「認定した事実」第二の所為は、刑法六〇条、一九九条に、同第三の一(1ないし3は包括一罪)ないし三及び第四の各所為は、いずれも同法二四六条一項に該当するところ、右第二の罪について所定刑中無期懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるが、一つの罪につき無期懲役に処すべきときであるから、同法四六条二項により他の刑を科さず、被告人Aを無期懲役に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中一〇〇〇日を右刑に算入し、訴訟費用中、主文掲記の各証人及び各通訳人に支給した分は刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人Aに負担させることとする。

二  被告人D

被告人Dの判示「認定した事実」第五の所為中、ライフル銃を所持した点は、平成五年法律第六六号附則二項、同法律による改正前の銃砲刀剣類所持等取締法三一条の三第一号、三条一項に、実包を所持した点は、火薬類取締法五九条二号、二一条にそれぞれ該当するところ、右は一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により重い銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪の刑で処断することとし、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人Dを懲役一年六月に処し、刑法二一条を適用して未決勾留日数中右刑期に満つるまでの分をその刑に算入し、同法二五条一項を適用して、この裁判の確定した日から三年間右刑の執行を猶予し、押収してあるライフル銃一丁(〈押収番号略〉)及び実包一〇〇発(〈押収番号略〉)は判示「認定した事実」第五の犯罪行為を組成したもので、被告人D以外の者に属さないから、同法一九条一項一号、二項本文を適用して同被告人からこれを没収することとする(なお、訴訟費用については、もっぱら本件殺人事件の審理に関して生じたものと認められるから、被告人Dが負担すべき訴訟費用とはならない。)。

(公訴棄却の主張に対する判断)

一  Aの弁護人は、本件殺人事件に関する公訴事実(判示「認定した事実」第二の事実)は、Aに対する殴打事件(東京高等裁判所昭和六二年う第一二七四号)の公訴事実と包括一罪の関係にあるところ、殴打事件についてはすでに東京地方裁判所で一審判決が下され、現在東京高等裁判所で審理されているものであるから、本件殺人事件は二重起訴にあたるものとして、公訴を棄却すべきであると主張する。

ところで、殺人罪は、人の生命という一身専属的で重大なものを保護法益とする犯罪であるから、異なる客体に対して攻撃が加えられた場合、常に被害者の数だけの犯罪が成立することは明らかであるが、同一の客体に対して数回の攻撃が加えられた場合においては、安易にこれを包括的に考察すべきではなく、ただ同一の意思のもとに、日時・場所が近接するなど同一と見られる機会において、類似した手段、方法によってなされた場合についてのみ、数回の攻撃を包括的に考慮することが許されると解するのが相当である。本件殺人事件と殴打事件とは、ともにAがCを被保険者とする生命保険金を取得する目的で、アメリカ合衆国ロスアンジェルス市内でCを殺害しようとした事案であるという点で共通性を有するが、前記認定のとおり、Aは、殴打事件でC殺害に失敗した後、改めて別の共犯者(実行犯人)を物色し、新たな殺害方法を考案するなどC殺害の計画を練り直して本件殺人事件に及んだものである上、殴打事件と本件殺人事件とを比較すると、犯行日時が殴打事件は昭和六三年八月一三日であるのに、本件殺人事件はその三か月余り後の同年一一月一八日であること、犯行場所が殴打事件ではロスアンジェルスのホテルの客室内であるのに対し、本件殺人事件ではロスアンジェルス市街の駐車場であること、共犯者が殴打事件では愛人のBであるのに対し、本件殺人事件では氏名不詳の者であること、犯行態様も殴打事件ではハンマー様のものでCの頭部を殴打したのに対し、本件殺人事件ではライフル銃でその頭部を銃撃したことなどの相異がある。このように殴打事件と本件殺人事件とは、犯行動機及び被害者を共通にするものの、犯行日時、犯行場所、共犯者及び犯行態様を異にし、殺害の意思についても、Aは、殴打事件の失敗の後、改めて計画を練り直して新たな犯意のもとに本件殺人事件に及んだというべきものであって、同一の機会における犯行であるとは到底言えないから、本件殺人事件は殴打事件とは独立し、別罪を構成すると解するのが相当である。

したがって、殴打事件と本件殺人事件とは併合罪の関係にあり、包括一罪の関係にはないから、包括一罪の関係にあることを前提とするAの弁護人の主張は採用の限りではない。

二  次に、Aの弁護人は、本件動産保険金詐欺事件(判示「認定した事実」第四の事実)は、被害金額が僅少な上、Aが実質的に利得した金額はほとんどないところ、検察官がいったん不起訴処分にしたのにもかかわらず、あえて本件を起訴したのは、もっぱらAの悪性を強調し、裁判所に対し不当な予断と偏見を与えるためであるから、公訴権を乱用したものとして、公訴を棄却すべきであると主張する。

しかし、現行法上、検察官に広範な訴追裁量権が認められていることに照らすと、公訴の提起が検察官に認められた訴追裁量権を逸脱した場合であっても、直ちにこれが無効となるものではなく、ただ公訴の提起自体が職務犯罪を構成するような極限的な場合に限って無効となるものと解するのが相当であるところ(最高裁判所昭和五五年一二月一七日決定参照)、本件動産保険金詐欺事件における公訴提起が右の極限的な場合に当たらないことは明らかである。すなわち、本件動産保険金詐欺事件は、被害金額等が少額とは言えず、犯行も計画的で、しかも保険制度の根幹を揺るがしかねない悪質なものであること、公訴提起の時点において、被害弁償がなされていないことは勿論、Aは犯行に対する反省の情を示していなかったのであって、検察官においても、これら一切の事情を総合勘案して公訴を提起したものと認められる上、本件動産保険金詐欺事件がいったん不起訴処分になったのに、検察官が裁判所に不当な予断と偏見を与えるために、あえてこれを起訴したものであると窺わせるような事情も全く存在しないから、本件における公訴の提起が、検察官に認められた訴追裁量権を逸脱してなされたものとは到底認め難い。

したがって、この点に関するAの弁護人の主張も採用の限りではない。

(本件殺人事件に関する量刑の事情)

本件殺人事件は、Aがその妻Cを被保険者とする生命保険金一億五〇〇〇万円余りを取得する目的で、共犯者である実行犯人をしてCの顔面にライフル銃を発射、命中させ、Cを植物状態に陥れた上、約一年後に死亡させるとともに、右保険金を取得したという事案である。

Aは、経済的に逼迫した事情も認められないのに、単に多額の保険金を得たいとの目的から妻Cの殺害を企て、実行したものであって、犯行の動機に何ら酌むべき点がないのはもちろん、金のために最愛の存在であるはずの妻を殺害したもので、単に利己的というにとどまらず、誠に冷酷、非道な犯行であると言わなければならない。また、Aは、Bとの共謀による殴打事件でC殺害に失敗するや、新たな共犯者を捜し出し、右共犯者と犯行に関する計画を練り、準備を整える一方、Cを甘言を用いて自己の渡米に際して同行するように誘った上、フルハムロードの業務用の写真撮影を口実にロスアンジェルス市街まで連れ出して、これを殺害した後、強盗による犯行であるかのように見せかけるため、Cのポシェットから現金を取り出し、その場に散乱させるなどの偽装工作を行っているのであって、極めて執拗な犯行であるばかりでなく、巧妙に計画された誠に悪質な犯行ということができる。しかも、C殺害の方法は、共犯者にライフル銃でCの顔面を銃撃させるという残忍この上ないものであり、その結果、Cの生命を奪ったもので、本件殺人の結果の重大性はいうまでもなく、この間、Aは、終始主導的な役割を果たしたのである。さらに、何ら落ち度がないのにもかかわらず、最愛のはずの夫の凶弾に倒れ、意識を回復することも、幼い長女C1の成長を見届けることもなく、一年後についに力尽きて息絶えたCの無念さは察するに余りがある。長じて、最愛の母を父の銃弾により失った事実を知った際の長女C1の心情、精神的衝撃に思いを致すと心が痛むのを禁じ得ない。しかるに、Aは、本件殺人事件の後、Cが殺害されたのは、アメリカ合衆国の治安の悪さに起因するものであるとして、同国大統領らに対し、これを非難し、抗議する手紙を送りつけたほか、本件がマスコミに報道されるや、その前で平然と悲劇の夫を演じるなどしてCの親族や社会を欺き続けた上、起訴後公判廷においても犯行を完全に否認し、自己の罪責を逃れることばかりに汲々として、本件殺人事件に対する反省の情を一片だに示していない。Cの親族、ことに本裁判の過程でCの父である夫C4を失った母C3の悲嘆、憤りには甚大なものがあると推察され、同女らがAの極刑を望む気持ちも十分理解することができる。加えて、夫が生命保険金を取得するために、妻をライフル銃を使用して殺害するという本件殺人事件が社会に与えた衝撃にも多大なものがある上、この種保険金目的の殺人事件が模倣性が強く、近時この種の事件が増大しており、この種事犯に対しては厳しく対処する必要もある。

このような本件殺人事件の動機・目的、犯行の残忍性、用意の周到性、計画性、結果の重大性、社会的影響、遺族の心情、Aの反省の程度等を考慮すれば、Aの刑事責任は重大であるといわなければならないところ、本件においてAのために有利に酌むべき事情は見出し難く、Aに対しては検察官の求刑どおり無期懲役に処すべきものと判断した。

(本件殺人についてDを無罪とした理由)

第一  本件殺人に関する公訴事実の要旨及び検察官の主張等

被告人Dに対する本件殺人(昭和六三年一一月一〇日付け起訴状)の公訴事実は、「Dは、Aと共謀の上、同人の妻C(当時二八年)を被保険者とする生命保険金を取得する目的で、同女を殺害しようと企て、昭和五六年一一月一八日午前一一時五分(アメリカ合衆国太平洋標準時)ころ、同国カリフォルニア州ロスアンジェルス市北フリーモント通り二〇〇ブロックの路上において、同女に対し、その頭部に二二口径のライフル銃で銃弾を発射して命中させ、よって、昭和五七年一一月三〇日午前一時五〇分(日本国標準時)ころ、神奈川県伊勢原市下糟屋一四三番地の東海大学病院において、同女をして、右銃弾による脳挫傷により死亡させて殺害したものである。」というものである。

そして、検察官は、Dが前記ライフル銃でCの頭部を銃撃して殺害した実行犯人であると主張している。

これに対し、Dは、本件殺人事件への関与を全面的に否定している。

ところで、本件においては、Dと本件殺人事件とを結び付ける直接の証拠はないから、証拠により認められる諸々の状況証拠ないし間接事実を総合して、DがC殺害の実行犯人であると断定できるかどうかを検討しなければならない。この点について、検察官がDと本件殺人事件とを結び付ける状況証拠(間接事実)として主張する主要なものは、①本件殺人事件におけるAの共犯者(C殺害の実行犯人)は、Aの交友範囲の中にいた人物で、日本語を話すロスアンジェルスに居住する男性であって、ライフル銃の使用や貨物用バンの運転に心得があり、Aから後日C殺害の報酬を受けられると信用し得る立場にあった者に限られるところ、Dは、このような条件を満たすほとんど唯一の人物であること、②Dは、本件殺人事件当時、その現場に駐車していた現場バン(本件バン)と車種等を同じくするバンを、犯行前日から当日にかけてレンタカー会社から借りていたが、Dには仕事にも私用にも右バンを使用する理由がない上、Dの供述する犯行前日から当日にかけての行動、ことにDの供述する右バンの使用目的や使用方法が不自然であるほか、Dは、当初犯行前日から当日にかけてレンタカー会社からバンを借りたことは勿論、当時利用していたレンタカー会社の名前さえ秘匿しており、しかも、右バンの走行距離が、Dが犯行前日に犯行現場を下見したと仮定した場合の走行距離に一致することなどからすると、Dは、右バンで本件殺人事件の犯行現場に臨場したといい得ること、③Dには、本件殺人事件当時、多額の金銭的報酬を期待してAからのC殺害の誘いに乗る動機があり、現に昭和五七年八月Aから右報酬の一部として一八三万円を受領していること、などである。

しかし、当裁判所は、本件における多数の証拠を精査検討した結果、検察官の主張する右各状況証拠(間接事実)は、いずれも証拠上その存在が認められないか、認められたとしても、そこからの推論の過程に飛躍があったり、反対解釈の余地があるなどして、DがC殺害の実行犯人であるとまで断定するには足りないと判断した。

そこで、以下、その理由の要旨を、検察官の主張に即しつつ説示することとする。

第二  共犯者の条件(範囲)について

検察官は、本件殺人事件におけるAの共犯者、すなわちC殺害の実行犯人の条件として、①殺人というような重大犯罪を依頼し、相手方を説得するとともに、犯行に関する綿密な打ち合わせを行うことは、Aの英語力では困難であるから、共犯者は日本語を話せる人物であること、②本件殺人事件の目撃者の供述によると、共犯者は男性であること、③C銃撃に際して日本国内では入手困難なライフル銃が使用され、犯行後すぐ日本国内では見かけないバンを運転して逃走していることなどからすると、共犯者は、ライフル銃の扱いやバンの運転に相当慣れているとともにロスアンジェルスに土地勘等があり、ことに、Aが共犯者に渡航費用を支払った形跡がないことからすると、共犯者はロスアンジェルスの居住者であると考えられること、④Aが、本件殺人のような重大な犯罪を、全く面識のない人物に働き掛けることはあり得ないから、共犯者はAの交際範囲内にいる人物であると考えられること、⑤Aが共犯者に対し、本件殺人事件の報酬を支払えるのは、本件殺人事件の後、Cを被保険者とする生命保険金を入手してからでなければならないことからすると、共犯者は、Aの、後日生命保険金を入手してから支払うという約束を信じる親しい関係にある人物であると考えられることなどを挙げ、Dは、右①ないし④の条件を満たすとともに、⑤の条件についてもAと約二年間にわたる取引を通じて同人の生活状況、仕事内容を熟知し、その収入のほとんどを同人に依存していたから、同人の支払い約束を信用し得る立場にあったなどとして、結局本件証拠上、Dが右の諸条件を満たすほとんど唯一の人物であると主張する。

しかしながら、まず、検察官が、その主張にかかる条件を具備するか否かを検討した人物の範囲が極めて限定されていることを指摘しなければならない。すなわち、Aの共犯者が備えるべき条件が、検察官の主張するとおりであると仮定した場合であっても、検察官は、本件殺人事件当時ロスアンジェルスに居住していた、あるいはそれ以前にロスアンジェルスに居住したことのあるすべての日本人または日系人等日本語を話せる人物すべてを対象として、その主張にかかる条件を具備しているかどうかを具体的に検討し、共犯者の範囲を絞っていったものではなく、主として、AあるいはDがロスアンジェルスにおけるAと交際のある人物として供述する人物に限定して条件具備の有無を検討しているにすぎないのである。しかし、このような方法による場合、Aとしてはできる限り、共犯者の名前を秘匿しようと努めるものと考えられる一方、Dにおいても、仕事面を離れたAのロスアンジェルスにおけるプライベートな部分については関知していない部分がかなりあるのであって、これらのことを考慮すると、検察官において共犯者としての条件を具備するか否かを検討した範囲が適切であるとはいい難い。現に検察官は、本件殺人事件当時ロスアンジェルスのすし店に勤務していた前記福原光治について、Aとは単にすし店の客と職人という関係にすぎず、それほど深い面識があった訳ではなく、しかも、同人の名はDの口からは語られていないのに、Aが殺人を依頼をした人物であると主張しているのである。したがって、本件殺人事件当時ロスアンジェルスに居住していた、あるいはそれ以前にロスアンジェルスに居住したことのあるすべての日本人または日系人等日本語を話せる人物すべてを対象として、その主張にかかる条件を具備しているかどうかを具体的に検討することなく、Dが検察官の主張する諸条件を具備するほとんど唯一の人物であると断定することは相当でない。

次に、検察官が主張する諸条件のうち、Dが具備しているとは考え難いものも存在する。すなわち、Dが、日本語を話す男性で、本件殺人事件当時ロスアンジェルスに居住し、それまでライフル銃を使用した経験があることや貨物用バンの運転にも慣れていたこと、Aと面識を有し、その収入のほとんどを同人との取引に依存していたという条件を具備していることは、Dも争わないところであり、関係証拠上も明らかである。しかし、後記認定のとおり、Aは、Dに対し、フルハムロードとキャンプビバリーヒルズ(以下「CBH」という。)との取引に関し、月額四〇〇ドルの顧問料を支払う約束となっていたのに、当時、この支払いを一年半余にわたって滞らせていたのであるから、これよりはるかに多額と考えられる本件殺人事件の報酬について、Dにおいて、Aが後日確実に支払ってくれるであろうと信頼していたとするには多大な疑問がある。さらに、共犯者がロスアンジェルスの居住者であるとした場合、ライフル銃の使用や貨物用バンの運転は特異な経験あるいは技量とはいえず、これらの経験あるいは技量を持つ者は多数いると考えられるから、これらの条件が共犯者の範囲を限定するについて、大きな意味を持つものとはいい難い。

したがって、確かにDは、ロスアンジェルスに居住する日本語を話す男性で、Aと面識を有する人物ではあるけれども、このような条件を満たす人物は他にも存在することが明らかであるから、右条件は、Dと本件殺人事件とを結び付ける状況証拠として、有力なものであるとはいい難い。

第三  Dが本件殺人事件の現場に臨場したか否かについて

検察官は、Dは、本件殺人事件当時、その現場に駐車していた現場バン(本件バン)と車種等を同じくするバンを、犯行前日から当日にかけてレンタカー会社から借りていたが、同人には仕事にも私用にも右バンを使用する理由がないこと、Dの供述する犯行前日から当日にかけての行動、ことに同人の供述する右バンの使用目的や使用方法が不自然であるほか、Dは、当初犯行前日から当日にかけてレンタカー会社から貨物用バンを借りたことは勿論、当時利用していたレンタカー会社の名前さえ秘匿していたこと、しかも、右バンの走行距離が、Dが犯行前日に犯行現場を下見したと仮定した場合の走行距離に一致することなどを考慮すると、Dが右バンで本件殺人事件の犯行現場に臨場したと認めることができる旨主張し、この事実が、DがC殺害の実行犯人であると断定する最も重要な状況証拠であると主張する。

そこで、以下、右検察官の主張を検討する。

一  Dバンの車種等について

証人ジョー・アダムスの公判供述、同人の宣誓供述書(〈書証番号略〉)、捜査報告書(〈書証番号略〉)及びレンタル契約書(〈書証番号略〉)によれば、Dは、本件殺人事件の前日である一九八一年(昭和五六年)一一月一七日から当日である同月一八日にかけてアルハンブラ市東バレー通りに所在するバレーレンタカーから一九八〇年型のフォード社製エコノライン二五〇、色ウィンブルドン・ホワイトの貨物用バン(以下「Dバン」ともいう。)を借りたこと、その走行距離が約三四マイルであったことが認められる。そして、実況見分調書(〈書証番号略〉)、捜査報告書(〈書証番号略〉)及び比較写真(〈書証番号略〉)によれば、フォード社製エコノラインは、運転席及び助手席の各側面には窓があるものの、それ以外の側面には窓がなく、また、エンジンフードの部分がほぼ水平に前方に突き出ている点に他社の貨物用バンと異なった特徴があることが認められる。

二  現場バンの車種等について

他方、前記認定のとおり、本件殺人事件の現場にあったバン(現場バンないし本件バン)は、Cの顔面を銃撃した実行犯人が使用したものと認められるところ、証人デニス・アルガイヤー、同コーネリウス・ニーリー及び同ウェイン・ギルバート・イェシドの各公判供述並びにデニス・アルガイヤーの宣誓供述書(〈書証番号略〉)、同人に対する事情聴取書(〈書証番号略〉)、コーネリウス・ニーリーの宣誓供述書(〈書証番号略〉)、同人に対する事情聴取書(〈書証番号略〉)、ウェイン・ギルバート・イェシドの宣誓供述書(〈書証番号略〉)、同人に対する事情聴取書(〈書証番号略〉)、アーサー・ニエトの宣誓供述書(〈書証番号略〉)、同人に対する事情聴取書(〈書証番号略〉)及び捜査報告書(〈書証番号略〉)によれば、現場バンは、白色で、側面に窓のない新型のフォード社製の貨物用バン、すなわちエコノラインであったことが認められる。

Dの弁護人らは、右アルガイヤー、ニーリー及びイェシドら本件殺人事件の目撃者の供述の信用性を争うが、これらのうちイェシドは、本件殺人事件直後の一九八一年(昭和五六年)一一月二五日にロスアンジェルス市警察の捜査官から事情聴取を受けた際、C殺害の実行犯人が使用した現場バンは、フォード社製エコノラインであると車種を特定した供述はしていないものの、色は白色で、サイド・ウィンドゥがなく、前がちょっと突き出ている新型のバンであるなどとエコノラインの特徴を述べているほか、未だフォード社製エコノラインが捜査の俎上にのぼっていたとは見られない一九八四年(昭和五九年)三月二七日には、捜査官に対し、現場バンは、運転席側に窓のない新型のフォード社製エコノラインであると車種を特定して述べ、その後も一貫して白色の、フォード社製エコノラインであると供述している上、その根拠についてもエコノラインが他社の貨物用バンのフードと比較して前に突き出ていること、自分はかつてフォードのバンに乗っていたことから車種を特定できる旨具体的な理由を挙げて供述しているのであって、その供述の一貫性や具体性に照らして十分信用に値するというべきである。また、イェシド以外の目撃者であるアルガイヤー、ニーリーらも、現場バンの車種をフォード社製エコノラインと特定して供述するのは後日のことではあるものの、本件殺人事件の直後から白色の貨物用バンであったと述べており、その限度でイェシド供述と符合し、その信用性を補強している。さらに、証人白瀬敏雄及び同鈴木和雄の各公判供述並びに同人ら作成の各鑑定書(〈書証番号略〉)は、いわゆるA写真一三枚目の左下に写された現場バンの右前部窓枠と、他の機会に写真に撮られたDバンあるいは他の貨物用バンの右前部窓枠とを、それぞれ右白瀬及び鈴木が専門知識を有する写真解析あるいは法歯学の分野におけるスーパーインポーズ法という比較対照法を応用することによって比較対照した結果、いずれも現場バンがフォード社製エコノラインである可能性が高い旨を内容としており、イェシドの供述の信用性を裏付けているというべきである。

以上のとおり、現場バンとDバンは、いずれも白色のフォード社製の新型エコノラインで、色調、車種及び年式を同じくするものと認めるのが相当である。

三  Dの供述するDバンの使途について

1 照会結果回答書(〈書証番号略〉)によれば、一九七九年ないし一九八一年にカリフォルニア州で販売されたフォード社製エコノラインの貨物用バン(エコノライン一五〇、二五〇、三五〇)の台数は、合計で二二四八台、そのうち白色のものは九七〇台であったと認められる。右はカリフォルニア州全体での台数であるから、ロスアンジェルス市内で販売されたフォード社製エコノラインの台数はこの数字よりも下回るものと推測されるけれども、ロスアンジェルス市がカリフォルニア州で最も人口の多い都市であること、C殺害の実行犯人が使用した貨物用バンがロスアンジェルス市内で販売されたものとは限らず、その隣接都市で販売された可能性も否定できないことを考慮すると、本件殺人事件当時ロスアンジェルス市内には少なくとも数百台のフォード社製の白色エコノラインが存在したものと認められる。そうすると、そもそも、仮に検察官が主張するように、Dには仕事のためにも私用にも右バンを使用する理由がないことや、Dの供述する右バンの使用目的や使用方法が不自然であることのほか、Dが当初犯行前日から当日にかけてレンタカー会社から貨物用バンを借りたことは勿論、当時利用していたレンタカー会社の名前さえ秘匿していたこと、右バンの走行距離が、Dが犯行前日に犯行現場を下見したと仮定した場合の走行距離に一致することなどの諸事情があったとしても、現場バンがDバンであること、すなわち、Dが犯行車両である貨物用バンで本件殺人事件の犯行現場に臨場したと直ちに推認することは相当でないというべきである。

しかし、この点はしばらく措き、さらに検察官の主張を検討することとする。

2 Dは、本件殺人事件の前日から当日にかけてバレーレンタカーからバンを借りた理由について、はっきりとした記憶はないと断った上、恐らく昭和五六年一一月一七日ロスアンジェルスに来たAから、同人が常宿としているシティーセンターモーテルに呼び出され、仕事の打ち合わせをした際、同月一六日にフルハムロードに宛ててインボイス#六七で発送した商品があったので、Aから、これと同じ便で送れるならばということで、ブレスト・カレンダーの追加注文を受けたため、これに間に合わそうと考え、同月一七日午後四時ころ、バレーレンタカーでバンを借りてブレスト・カレンダーの仕入れ先であるパノラミックに行こうとしたが、その途中、バンのタイヤがパンクし、その修理に手間取ったため、結局仕入れを断念して家に帰り、翌一八日バンを返還したものと思う旨供述している。

3 しかし、証人松下公成、同マイケル・メガーギー及び同井原康史の公判供述、山口一文(〈書証番号略〉)、井原康史(〈書証番号略〉)、大城戸裕(〈書証番号略〉)及び松下公成(〈書証番号略〉)の各検察官調書、マイケル・メガーギー(〈書証番号略〉)及び井原康史(〈書証番号略〉)の各宣誓供述書並びに船荷証券船積記録(〈書証番号略〉)を総合すると、次の事実が認められる。

(一) Dは、フルハムロードに向けて商品を船便で発送する場合、主として日新運輸倉庫株式会社の米国現地法人である米国ニッシンに貨物の集荷、船積み、通関手続きを依頼していた。米国ニッシンは、自らは貨物を運搬するための船を所有せず、船会社との間で一週間に一便程度コンテナ積載枠を確保するとともに、複数の一般の顧客から小口の貨物を受け取り、これを米国ニッシンの倉庫でコンテナ詰めして封印した上、このコンテナを船会社のコンテナヤードに持ち込んで自らが荷送り人となって船会社に運搬してもらうという業務を営んでいたが(以下このようなものを「混載コンテナ」という。)、Dは、自ら直接船会社に貨物を持ち込んでコンテナを仕立ててもらうよりも費用が低廉ですむため、フルハムロード向けの貨物を出荷する場合には、米国ニッシンの仕立てる混載コンテナを利用していた。

(二) Dは、インボイス#六七に記載された商品をフルハムロードに発送した際にも、KSC及びOOCLという二つの船会社の共同配船にかかるコンテナ船であるオリエンタル・ガバナー三W号(以下「OG三W号」という。)に積載されることになっていた米国ニッシンの混載コンテナを利用することにしていた。そして、当初OG三W号は、一九八一年(昭和五六年)一一月一三日にロスアンジェルス近郊のロングビーチ港に入港し、コンテナの積み込みを行い、翌一四日に出港する予定となっていた。

(三) 米国ニッシンあるいはその混載コンテナを利用する顧客が、船会社あるいは米国ニッシンに貨物を持ち込む締め切り日は、当該コンテナを積載するコンテナ船の入港予定日を基準として決定され、原則として、米国ニッシンがコンテナ詰めした貨物をコンテナヤードで船会社に引き渡す締め切り日は入港予定日の前日、混載コンテナを利用する客が米国ニッシンに貨物を持ち込む締め切り日は入港予定日の前々日と定められていた。そして、OG三W号についても、当初のロングビーチ港への入港予定日(一九八一年(昭和五六年)一一月一三日)を基準として、米国ニッシンがコンテナ詰めした貨物をコンテナ・ヤードで船会社に引き渡す締め切り日は同月一二日、混載コンテナを利用する客が米国ニッシンに貨物を持ち込む締め切り日は同月一一日と設定されていた。

(四) ところで、貨物持ち込みの締め切り日が変更されることは余り例はないけれども、全くないという訳ではなかった。すなわち、コンテナを積むべき船の入出港が遅れた場合でも、遅れの幅が二、三日程度であれば、原則として、右の締め切り日が変更されることはなかったが、遅れが大幅で、しかもそれが入港の相当前に判明している場合には、これに応じて船会社あるいは米国ニッシンの貨物持ち込みの締め切り日が延期されることはあった。また、コンテナを積むべき船の入港に遅れがない場合でも、米国ニッシンは、顧客から、あらかじめ、貨物の持ち込みが締め切り日に間に合わないとの連絡を受けた場合には、貨物の持ち込みを締め切り日の翌日(すなわち、米国ニッシンが船会社のコンテナヤードにコンテナを持ち込む締め切り日)の午前中まで猶予することがあった。

なお、米国ニッシンの混載コンテナを利用する顧客から、いったん貨物の引き渡しを受けた後、締め切り日を過ぎて追加貨物を同じコンテナ船で発送したいとの要望があった場合、米国ニッシンとしては、貨物を詰めたコンテナが未だコンテナヤードに届けられていない段階であれば、貨物を追加する必要性、米国ニッシンにとって当該顧客が重要であるか否か、労働力の手配が可能か否か等を考慮して、顧客の要望に応じるか否かを決するが、すでに貨物の積み込まれたコンテナが船会社のコンテナヤードに届けられた後は、通関手続あるいは船積み作業に従事する労働者との関係で追加貨物を受け付けることは事実上不可能であった。

(五) Dは、同月一二日インボイス#六七に記載された商品を米国ニッシンに自宅まで集荷にきてもらって引き渡した。そして、これらの商品は米国ニッシンの倉庫でコンテナ積みされた上、同月一三日午前九時八分ころ船会社のコンテナヤードに届けられ、すでに米国ニッシンから船会社に引き渡されていた。したがって、Dが同月一七日にブレスト・カレンダーを追加しようと考えてもインボイス#六七の商品と同じOG三W号で発送することは事実上不可能であった。

(六) 他方、OG三W号は、当初同月一三日にロングビーチ港に入港し、翌一四日に出港の予定であったが、入港が二日遅れ、同月一五日にロングビーチ港に到着した。しかも、その際同時にロングビーチ港に到着した他の船があったため、さらに港外で待機を命じられ、結局同港に接岸できたのは翌一六日午後一一時二〇分のことであった。そして、翌一七日午前零時ころから空コンテナを埠頭に降ろす作業が開始されたが、その後も同船に載せるクレーンの機材の到着が遅れたり、作業をめぐっての労働者らの反発が生じ、その話し合いのため、コンテナの船積み作業はさみだれ式に遅れ、同船がロングビーチ港を出港したのは同月二〇日午前六時四〇分のことであった。従来、コンテナ船の入出港が遅れることはあっても、このような大幅な遅れが生ずるのは極めて異常な事態であった。

以上の事実が認められる。右認定の事実によると、Dが同月一七日Aと打ち合わせをした際、同人からブレスト・カレンダーの追加注文を受けたとしても、(OG三W号は当初の予定よりロングビーチ港への入出港が遅れてはいたものの)、その時点ではすでにインボイス#六七の商品は米国ニッシンに集荷され、そこでコンテナ積みされた上、船会社のコンテナヤードに届けられていたのであるから、追加注文を受けたブレスト・カレンダーをOG三W号に積載できる可能性は客観的には存在しなかったと認めるの相当である。

4 このようにDの貨物用バンの使途に関する供述は、客観的な合理性を欠く上、右バンのタイヤがパンクしたとしても、スペアータイヤを積みながら、パンクを修理してもらうため、ガソリンスタンドで四〇分近くも待たされた末、結局ブレスト・カレンダーを仕入れることなく家に帰ったというもので、釈然としない点も残るといわなければならない。しかし、そうだとしても、検察官が主張するように、Dがことさら虚偽の供述をしていると断定するにはなお躊躇を覚えざるを得ない。

すなわち、まず、Dが貨物用バンの使途を供述するに至った経緯を検討すると、Dの公判供述によれば、Dは、本件殺人事件の前日どのような目的で貨物用バンを借りたのか判然とした記憶を有していなかったが、勾留中、弁護人から示された当時の関係資料を調べた結果、フルハムロードに向けて商品を発送したことを示すインボイスの昭和五六年一一月一六日付けのものと同年一二月三〇日付けのものにブレストカレンダーが記載されていたことなどから、これとの関連で記憶を喚起するように努め、恐らくこのようなことであったであろうという推測を述べたものであると認められる。貨物用バンの使途について判然とした記憶がないところに、同月一六日付けのインボイスがあれば、その日付けから、米国ニッシンに対してフルハムロードに発送する商品を引き渡したのが同日のことであり、その翌日(同月一七日)であれば、米国ニッシンにおいて商品の追加発送を受け付けてくれたかも知れないと考え、さらに同年一二月三〇日付けのインボイスの記載をも考慮して、同年一一月一七日の貨物用バンの使途を推測することは十分あり得ることで、むしろ自然で合理的であるとさえ言える。したがって、このような経緯でなされた供述内容が客観的な事実と矛盾し、結果的には不合理なものと判断される場合でも、そのことから直ちにDが虚偽の供述をしていると断定することは相当でないというべきである。

なお、Dの公判廷及び捜査段階における供述によれば、DがDバンの使途について初めて質問を受けたのは、本件殺人事件が発生してから約七年を経過した後のことであると認められるから、Dが右使途について記憶を有していなかったとしても、一概にこれが不自然であるとか、不合理であると決め付けることはできないと考えられる。

検察官は、当時その収入のほとんどを依存していたA夫妻が銃撃されるという衝撃的な事件が起こったのであるから、Dにはその前日の記憶が残っているはずであると主張するが、本件殺人事件の後のことについては、そのこと自体が衝撃的な事件と結び付いて非日常的で、特異な体験となるため、記憶を保持するのが容易であるということはできるものの(例えば、本件殺人事件後Aの入院している病院に駆けつけ、入院期間中看病したことなどは、非日常的な特異な体験として相当の期間記憶に残るものと考えられる。)、日常的な出来事にすぎない本件殺人事件以前の事柄については、それに関する記憶が失われたとしても必ずしも不自然であるとはいい難い上、いかに衝撃的な事件であったとしても、約七年という年月の経過とともに記憶が次第に風化していくことはあり得ることであると考えられる。

次に、指摘すべきことは、同年一一月一七日の時点において、Dが、客観的にはOG三W号に追加のブレスト・カレンダーを積むことができないのにもかかわらず、主観的にはできるのではないかと考えて行動した余地を完全には否定できないことである。すなわち、前記認定のとおり、Dは、インボイス#六七の商品を同月一二日に米国ニッシンに引き渡したものであるが、他方、前掲3掲記の各証拠、テレックス交信録(〈書証番号略〉)及び捜査報告書(〈書証番号略〉)によれば、同月一一日、OG三W号が予定より二日遅れでチャールストン港を出港し、ロングビーチ港に向かったとの連絡が船会社に入ったものと認められるから、Dが米国ニッシンに貨物を引き渡した際に、米国ニッシンの担当者から、OG三W号のロングビーチ港への入港が当初の予定より二日程度遅れそうだとの情報を受けたとの可能性がある。そして、同月一七日のAとの打ち合わせの際、AからOG三W号に載せられるならばということで、ブレスト・カレンダーの追加注文を受けた場合、Dとしては、米国ニッシンにその後のOG三W号の運行状況を確認し、OG三W号に追加商品を積載できるか否かを確認したものと考えるのが合理的である。その時点においては、米国ニッシンとしては、すでに顧客からの貨物を混載したコンテナを船会社のコンテナヤードに運び入れてしまっているのであるから、もはやDの要望に応ずることは困難であると考えたとしても、得意先からの強い要望であるから、いわば角を立てないためにも、その場で直ちに断ることをしないで、しかも、前記認定のとおり、当時OG三W号は、前日の一六日の深夜にようやくロングビーチ港に入港したものの、その後のコンテナ積みの作業はさみだれ式に遅れるという異常な事態であったのであるから、難しいかも知れないがという留保を付けた上、一応船会社に確認するという姿勢を取ったということも考えられることである(現に、前掲証拠によれば、混載コンテナの船会社への持ち込み締め切り日をはるかに過ぎた同月一六日にコンテナヤードに持ち込まれたコンテナもあったことが認められる)。その際、船会社の担当者が席をはずしているとか、さらに右担当者において作業の進捗状況を現場に確認する必要があるなどの事情で、右に対する確答が直ちになかったような場合、Dとしても、面前にいるAからの追加商品の要望であるから、Aに真摯に仕事に取り組んでいるとの姿勢を示すためにも、間に合わなくても元々という考えのもとに、レンタカー会社からバンを借り受け、ブレスト・カレンダーの仕入れに向かったと考える余地もないとはいえない。

なお、検察官は、Dがわざわざバンをレンタカー会社から借りておきながら、パンクの修理に手間取るや、簡単に追加のブレスト・カレンダーの仕入れをあきらめて家に戻り、翌一八日以降もブレスト・カレンダーの仕入れや出荷作業を行っていないのは不自然、不合理であると主張するが、Dには、当時午後六時までに長女D1を託児所に迎えに行かなければならない事情があった上、パンク修理を待っている間に、米国ニッシンの担当者らに連絡を取り、その際、OG三W号に追加のブレスト・カレンダーを積載するのは不可能であると確定的に告げられたということも考えられない訳ではなく、また、翌一八日以降についても、Aの指示を待ってブレスト・カレンダーの仕入れ、出荷を行うか否か決めようと考えていたところ、そのようなときに本件殺人事件が起こり、その指示が得られないまま日時が経過したと考えることもできない訳ではないから、Dの同月一七、一八日の行動がことさら不自然、不合理であると断ずることはできない(なお、車で走行中、タイヤがパンクすることは必ずしも希有の事例とはいい難い。)。

以上のとおり、Dが追加ブレスト・カレンダーを出荷しようと考えてDバンを借りたという可能性を完全に否定し去ることはできないから、Dがこの点についてあえて虚偽の供述をしているとまでは断定できないといわなければならない。

四  Dバンと現場バンの同一性に疑いを抱かせる事情について

1 いわゆるA写真一三の左下に写っている現場バンにはアンテナのマスト部分が写っていないことが明らかであるところ、証人白瀬敏雄の公判供述によれば、同車にアンテナが装着されていれば、アンテナマストを最も短く畳んだ場合でも、高さが約三三センチメートルあるため、A写真一三の左下にはアンテナのマスト部分が写るものと認められる。したがって、現場バンには、アンテナマストがその根元部分において破損して装着されていなかったものと認められる(この点については検察官においても争っていない。)。

ところで、レンタル契約書(〈書証番号略〉)、捜査報告書(〈書証番号略〉)、フランクリン・ヒーダーに対するインタビュー・レポート(〈書証番号略〉)及び同人に対する照会とその回答(〈書証番号略〉)によれば、本件殺人事件の前日から当日にかけてDが借りた貨物用バン(Dバン)は、一九七九年(昭和五四年)一一月にバレーレンタカーが購入した当時、エコノライン用の純正アンテナが装着されていたが、その後所有者が転々と変わり、本件殺人事件の約七年後に現在の所有者リチャード・スタンリー・サシャーのもとで発見された際にも、エコノライン用の純正アンテナが装着されていたこと、現在Dバンに装着されているアンテナのうち、アンテナ基部とアンテナコードは、それ自体に記された製造年月日等から、Dバンが製造された際に装着されたオリジナルのものであり、また、アンテナマストについても、それ自体に製造年月日は記されていないため、その正確な装着時期は分からないものの、遅くとも一九八五年三月ころまでに製造されたもので、車両製造時に装着されたのと同種のオリジナルタイプのアンテナマストであることが認められる(以上に認定した事実についても検察官は争っていない。)。

右認定の事実によると、Dバンのアンテナマストについても、車両製造時に装着されたオリジナルなものである可能性が高い。すなわち、Dバンのアンテナマスト部分は、車両製造時からサシャーのもとで発見されるまでの間、破損したことはなかった可能性が高いということができる。そして、レンタル契約書(〈書証番号略〉)によれば、Dが本件殺人事件の前日にバレーレンタカーからDバンを借り出した際のレンタル契約書には、貸出時のDバンの車両状態欄に「GOOD」と記載されていることが認められるところ、この事実もまた当時Dバンのアンテナに異常がなかった可能性が高いことを裏付けているというべきである。

2 ところで、この点について、バレーレンタカーの経営者であったジョー・アダムスは、公判(第三一回、三二回)において、「バレーレンタカーで保有していた貨物用バンのアンテナマストは度々折れたが、その原因はいたずらによるものもあったけれど、ほとんどは洗車の際のことであった。アンテナマストが折れても、AMラジオを聞く際の支障にはならなかったため、直ぐに修理しないで、折れたまましばらく放置しておくこともあった。アンテナマストが折れていても、レンタル契約書の貸出時の車両状態欄にはその旨の記載をしなかったので、車両状態欄に「GOOD」という記載がなされていたとしても、それはアンテナマストが正常に装着されていたことを必ずしも意味するものではない。」旨供述している。そして、検察官は、白瀬敏雄が前記鑑定(〈書証番号略〉)に際して撮影した二七台のバンのうち、アンテナ装着の有無が不明な九台を除く一八台中、アンテナが装着されていたのは一〇台で、装着されていなかったのは八台あり、しかも装着されていた一〇台中の三台については、アンテナマストの折損暦があるからロスアンジェルスにおいては、一般的にバンのアンテナ整備状況が悪いとした上、バレーレンタカーが保有するバンのアンテナ整備状況についても、一九八八年一〇月以降に撮影された各種写真やレンタル契約書等を検討すると、一九八四年以降のバレーレンタカー保有のバンのアンテナは、よく折れ、折れたまましばらく放置されていたことが窺われ、しかも貸出時にアンテナマストが折れていることがレンタル契約書に記載されずに、車両状態欄に「GOOD」と記載されているとして、これらの事実はアダムス証言の信用性を裏付けていると主張している。

3 そこで、アダムス証言の信用性について検討する。

(一) まず、貨物用バンのアンテナマストが洗車の際に度々折れたとする点については、本件殺人事件当時バレーレンタカーがその保有するレンタカーを洗車する際、もっぱら利用していたバレーカーウォッシュの副支配人であったホセ・ルイス・ピネドがこれに反する供述をしている。すなわち、同人は、公判廷において(第一二一回、一二二回)、「バレーカーウォッシュにおいては、洗車を行う際には、あらかじめ従業員がアンテナマストが折損しないように、これを畳んだ上で洗車を行うという手順になっていた。しかも、当時使用していた洗車機には、大型車を感知するためのセンサーがついており、大型車が洗車に際してトップブラシの部分を通過する際には、右センサーが作動して、トップブラシの位置を自動的に上げるため、トップブラシがアンテナに接触することはなかった。同人は、本件殺人事件当時同カーウォッシュの副支配人の地位にあり、洗車に関して顧客から苦情を受ける立場にあったが、洗車の際にアンテナマストが折れることがなかったとはいえないものの、実際に折れたところを見た記憶はない。」などと供述している。

ところで、アダムスは、レンタカー会社の経営者であって、実際の洗車作業に関与する立場にはなかったのであるから、右作業に従事していたピネドに比して相対的にその供述の信用性は低いといわなければならない上、ピネドらカーウォッシュ側にとっては、洗車に際してアンテナマストを折損してしまった場合には、その損害を賠償しなければならない立場にあるのであるから、アダムスが供述するように度々アンテナマストを損壊するようなことがあれば、経営的にも困難な状態に陥ってしまうのは明らかである。したがって、洗車に際しては、あらかじめアンテナマストが折損しないように十分な注意を払った上で作業を行った。あるいは実際にアンテナマストはほとんど折損しなかったとのピネド供述は、合理的かつ自然であって、十分信用に値するものと考えられる。

なお、検察官は、ピネドがホーデル調査員に対して供述した内容(〈書証番号略〉)が、貨物用バンのアンテナは乗用車のアンテナよりも頻繁に折損したと述べていること、その際アンテナ折損防止のためのセンサーについて述べていないことを理由としてピネド供述の信用性を争うが、ピネドはこの点について、当公判廷において、ホーデル調査員に質問を受けた際には、突然のことで準備なしの状態で答えたことや問題の重要性を十分認識しないまま答えてしまったので不正確な部分があるが、証人として当公判廷に出頭した際には、当時の記憶を十分喚起した上で供述したと述べ、供述が変化した理由について説明しているところ、右説明は、それなりに合理的で、必ずしも不自然とはいえないから、前記の事情は、ピネド供述の信用性に影響を及ぼすほどのものではないというべきである。かえって、ビクター・カルバハル(〈書証番号略〉)、ペドロ・カルバハル(〈書証番号略〉)及びフレッド・グラウアー(〈書証番号略〉)に対する各インタビュー・レポート並びにガス・トランサム宛質問状及び同人からの回答(〈書証番号略〉)によれば、これらの者は、本件殺人事件当時、バレーカーウォッシュにおいては、洗車を行う際、あらかじめ従業員がアンテナマストを畳んで作業を行うという手順になっていたこと、当時使用していた洗車機には、大型車を感知するためのトラック検知スイッチがついており、これがアンテナマストを折損する事故を防止する役目を果たしていたこと、そのため、本件殺人事件当時、洗車の際に貨物用バンのアンテナマストが折れる事故はほとんどなかったことなどピネド供述に符合する供述をしており、ピネド供述の信用性を裏付けているということができる。

(二) 次に、バンのアンテナマストは度々折れるため、折れた場合でも直ちに修理をせず、しばらく放置しておいた旨のアダムス証言については、この点に関しても、ピネドは、「洗車に際してアンテナマストが折損した場合、カーウォッシュ側の責任でアンテナを修理したり、その費用で取り替えたが、顧客がその知り合いの店で取り替えたような場合には、費用を支払ったことを示す領収証と交換でなければ代金支払いに応じなかった。」と供述している。前記説示のとおり、ピネド供述は、内容が合理的で信用性が高いというべきであるところ、洗車に際して保有車両のアンテナマストが折損した場合、バレーレンタカーにおいてもバレーカーウォッシュに対して、直ちにアンテナマストの修理を求めたはずであるから、折れたまま放置していたとのアダムス証言は信用することができない。

(三) さらに、バンについては、レンタル契約書の貸出時の車両状態欄に「GOOD」と記載されていたからといって、アンテナが折損していなかったことを意味しないとのアダムス証言については、そもそも車両貸出時に車両の状態を記載する意味は、車両返還時に損壊等があった場合、当該損壊が車両貸出時にすでにあったか否かをめぐって紛争が生じるのを予防することにあると考えられる(このこと自体はアダムスも自認するところである。)ことに照らして、不合理というべきであって、到底採用の限りではない。また、アダムスは、「貨物用バン以外の車両については、レンタル中にアンテナマストが折損した場合、顧客に損害賠償を求めるとしながら、貨物用バンに限っては例外的に損害賠償を請求しない。レンタル契約書にアンテナの折損を記載しないのは、いちいち記載するのが面倒であるからである。」などと供述するが、そもそも同人は、貨物用バンについてだけ何故例外的な扱いをするのかについて納得できる説明をなしていない上、貨物用バンのレンタル料金に比してアンテナマストの取り替え費用が取るに足りないほど低廉であるとはいえないこと(レンタル契約書《〈書証番号略〉》によれば、Dが借りたDバンのレンタル料金は、三〇ドル余であるのに対し、アダムス証言によれば、純正のアンテナマストを取り替えた場合には約一〇ドルの費用を要することが認められる。純正でないアンテナマストを使用した場合でも、これより若干安い程度の費用は必要であると考えられる。)、レンタル契約書にアンテナ折損の事実を記載することがそれほど面倒なことであるとは考えられないこと(現に、レンタル契約書《〈書証番号略〉》中には貸出時の車両状態欄にアンテナが折損している旨の記載のある契約書が存在することは検察官も争っていない。)に照らして、アダムスの右証言は到底採用の限りではない。

(四) また、検察官のロスアンジェルス市内における貨物用バンの整備状況に関する前記主張については、そもそもDバンは、本件殺人事件当時購入してからわずか二年程度しか経過していなかった比較的新しい車両であるのに対し、白瀬が前記鑑定に際してその資料とするために撮影した貨物用バンは相当古いもので、かつ、撮影した台数もわずか二七台とロスアンジェルス市内における貨物用バンの台数からすると、問題とならない程度の僅少なものであって、統計的にはほとんど意味を有しないことを指摘しなければならない。次に、バレーレンタカーが保有する貨物用バンのアンテナの整備状況についても、まず、折損頻度の点については、洗車の際に使用される洗車機が、本件殺人事件当時は前記認定のとおり、センサー(トラック検知スイッチ)の働きによりアンテナマストが折れないように設計されていたものであるのに対し、一九八四年以降のものは右センサーは取り付けられていなかったのであるから、このような構造上の相違が、洗車の際にアンテナマストの折損事故を生じさせる頻度に及ぼす影響を軽視できない上、折損後の放置状況、折損した場合のレンタル契約書への記載方法の点についても、その主張の根拠となった写真は、一九八八年一〇月から一九九三年二月までの間のわずか七つの時点にすぎないばかりでなく、契約書についても、その当時バレーレンタカーが保有していたすべての貨物用バンの契約書を検討対象としたものではなく、そのうち、一九八四年から一九八九年までの間保有したわずか二台の貨物用バンについての契約書を対象として検討したにすぎないものであるから、これらの検討結果から、直ちに年代も異なる本件殺人事件当時のDバンのアンテナの整備状況を推量することは相当でないというべきである。

このように、検察官の主張は、いずれの点においても、アダムス証言の信用性を裏付けるには足りないといわなければならない。

(五) なお、検察官は、本件殺人事件の翌年一九八二年(昭和五七年)三月三〇日に借り出されたDバンの車両状態欄には「アンテナ」との記載があるから、その約四か月前の本件殺人事件当時においてもDバンは、そのアンテナマストが折損していたと推認できると主張する。しかし、Dバンのアンテナマストが洗車の際に折損したとすれば、そのままの状態で四か月もの間放置されていたとすることに疑問があることは前記説示のとおりであるが、その点を措くとしても、レンタル契約書(〈書証番号略〉)及び電話聴取書(〈書証番号略〉)によれば、本件殺人事件から一九八二年(昭和五七年)三月三〇日までの間のDバンのレンタル契約書中には、貸出時の車両状態欄に、車体の小さな傷についても記載してあるものが何通もあるのに対し、アンテナ折損との記載のあるものは存在しないのである。また、一九八二年(昭和五七年)三月三〇日にクロスビーがDバンを借りた際のレンタル契約書には、貸出時の車両状態欄に「アンテナ」のほか、塗装の損傷等いくつかの車体の損傷についても記載がなされているところ、同人は、その後ロスアンジェルス市警の捜査官から車両貸出時の状況について事情を聞かれた際、アンテナマストが折れていたのか、曲がっていたのか判然とした記憶はない旨供述しているのであって、アンテナマストが単に曲がっていたにすぎない場合でもレンタル契約書にその旨の記載をさせる可能性を否定していない上、このようにレンタル契約書の車両状態欄に多数の記載をさせるような神経質ともいうべき顧客であれば、アンテナが折損しておらず、単に曲がっていたにすぎなくとも、「アンテナ」との記載をさせても不自然ではないと考えられるのである(なお、捜査報告書《〈書証番号略〉》によれば、本件殺人事件の約七年後サシャーのもとで発見されたDバンのアンテナマストは曲がっていたことが認められる。)。

したがって、一九八二年(昭和五七年)三月三〇日に借り出されたDバンの車両状態欄に「アンテナ」との記載があることを理由として、本件殺人事件当時においてもDバンは、そのアンテナマストが折損していたと推認することは相当でない。

4 もっとも、以上は主として、アンテナマストの洗車の際の折損事故を念頭において論じてきたものであるが、アンテナマストの折損はいたずらでも生じ得るし、検察官がバレーレンタカーの保有する貨物用バンのアンテナの整備状況に関して主張する点についても、その可能性が絶無であるとは言えないから、本件殺人事件当時、Dバンにアンテナマストが装着されていたと断定することはできない。しかし、右に説示したところによると、その可能性は相当高いということができるのであって、Dバンと現場バンとは同一でない疑いがかなり残ると言わなければならない。

五  走行距離等について

レンタル契約書(〈書証番号略〉)によれば、Dが本件殺人事件の前日から当日にかけて借りた貨物用バン(Dバン)の走行距離は、約三四マイルであると認められるところ、検察官は、この距離は、Dが犯行前日にバレーレンタカーからDバンを借りた後、いったん本件殺人事件の犯行現場を下見して(シティーセンターモーテルに寄らずに)自宅に戻り、犯行当日本件殺人事件の犯行現場におもむき、Cを殺害してから、バレーレンタカーに返還したと仮定した場合の走行距離に一致する旨主張する。

しかし、DがC殺害の実行犯人であるとした場合、あえて犯行前日に犯行に使用するバンを用いて犯行現場の下見をする必要性が存したか疑問を差しはさむ余地がある。すなわち、Dは、ロスアンジェルスに居住していたのであるから、犯行現場の下見はいつでもできたものであるし、Aと犯行現場でC殺害に関する綿密な打ち合わせを行うためといっても、わざわざ車を使用する通勤者が勤務を終えて帰宅し始める時間帯に、しかも、犯行に使用するバンで犯行現場に乗りつけ、その場で栗色のフェアーモントで乗りつけたAとともに翌日のC殺害の状況を想定して、周囲からの死角を確認しながら犯行の打ち合わせを行うというのでは、二日続けて犯行現場に同じバンとフェアーモントが不自然な方法で駐車することになるのであるから、これを通勤者に目撃されるなどして怪しまれる恐れがそれだけ増大することになる上、Aとともに下見におもむく場合でも、犯行現場を確認するためであれば、ロスアンジェルスの地理に万全とはいい難いAのために、現場で落ち合うよりは、同人をDバンに乗せて犯行現場におもむくことの方が自然であると考えられるから(その場合には下見後Aをシティーセンターモーテルに送って行くことになるので、走行距離も当然違ってくることになる。)、DがバレーレンタカーでDバンを借りた後、これに乗って犯行現場におもむき、そこでフェアーモントで乗りつけたAと落ち合ったと推量することには疑問がある。

また、実況見分調書(〈書証番号略〉)によれば、Dが、犯行前日から当日にかけてDバンを運転して走行したと供述する経路(ブレストカレンダーの仕入れにDバンを運転してパノラミックに向かったが、途中で車がパンクしたことに気付き、ハリウッドフリーウェーのカヘンガ出口付近に存するガソリンスタンドで修理しようとしたが、手間取ってしまったため、結局あきらめてD1を託児所に迎えに行った後家に戻り、翌日バレーレンタカーにDバンを返却した。)も、その走行距離はおおむね三四マイルとなることが認められる。

したがって、Dバンの走行距離についても、必ずしも検察官の主張する走行経路だけが唯一のものではないというべきであるから、この点に関する検察官の主張も、Dと本件殺人事件とを結び付ける有力な状況証拠ということはできない。

六  Dバンを借りたことを秘匿したこと等について

検察官は、Dが本件殺人事件当時利用していたバレーレンタカーの存在及び本件殺人事件の前日から当日にかけてバレーレンタカーからDバンを借りたことをことさら秘匿していたとして、このことからもDがC殺害の実行犯人であることが強く推認されると主張する。

確かにDの捜査段階における供述及び捜査報告書(〈書証番号略〉)によると、Dは、昭和六二年八月二九日、来日した米国捜査官らから、本件殺人事件当時利用していたレンタカー会社を聞かれた際も、その後本件殺人事件の容疑で逮捕、勾留された直後に同様の質問を受けた際も、バレーレンタカーの名前を明らかにしていないことが認められる。この理由について、Dは、公判廷において、単に忘れていたからにすぎないと供述している。

ところで、Dが本件殺人事件後、当時利用していたレンタカー会社について捜査官から質問を受けた最初の機会は、昭和六二年八月の米国捜査官らからのものであるところ、その時点においては本件殺人事件が発生してからすでに六年弱が経過していた上、質問された内容自体も当時仕事のために利用していたレンタカー会社の名前を挙げるという日常的な事柄の域を出ないのであるから、Dがかつて利用していたバレーレンタカーの名前を思い出せなかったからといって、必ずしも不自然と断ずることはできないというべきである。

検察官は、Dがバレーレンタカーを利用するようになった経緯及び同レンタカーがDが米国において最後に利用していたレンタカー会社であることから、Dがバレーレンタカーの名前を思い出せないはずはないと主張するが、人の記憶力には個人差があるのであるから、年月の経過とともに忘れることがあっても必ずしも不合理ではないと考えられる。また、Dが捜査官の質問に対し、バレーレンタカーの名前を秘匿していたと仮定した場合においても、一般的に自分の立場をできる限り容疑と離れた場所に置きたいと考えるのは、その是非はともかくとして、あり得ないことではないといえるから、バレーレンタカーの名前を秘匿していたことが、必ずしもDについてC殺害の実行犯人であることを推認させる事情とはならないというべきである。

さらに、Dが本件殺人事件の前日から当日にかけてバレーレンタカーからバンを借りたことを秘匿したという点については、Dは、公判廷において、「昭和六三年三月ころから警視庁の捜査官やマスコミ関係者に追いかけ回されるようになったことから、自分にC殺害の実行犯人であるとの疑いがかかっているとの気配を感じたことや、C殺害の実行犯人が犯行に際して貨物用バンを使用したというマスコミ報道があったため、妻D2と当時のインボイス等を調べた結果、本件殺人事件二日前の一九八一年一一月一六日付けのインボイスに対応する米国ニッシンのBLにインランド・フィーが記載されていたことから、当時レンタカー会社から貨物用バンを借りたことはないと考えるに至った。ところが、本件殺人事件の容疑で逮捕された後、取調官からDバンのレンタル契約書を示され、自分が本件殺人事件の前日から当日にかけてDバンを借りていたことを知ってショックを受け、また、Dバンの使途についても取調官から資料を見せてもらえなかったため、なかなか思い出せなかったものである。」と述べているのであって、右供述自体は、Dが取り調べを受けるまでの日時の経過等を考慮すれば、不自然あるいは不合理といえないことは明らかであり、この点でもDがことさら虚偽の供述をしたとまでは断定することが困難である。

七  DがC殺害の実行にDバンを使用する不自然さについて

白昼、車や人の通行が全くないとはいえない犯行現場において、本件殺人事件のような重大な犯罪を犯そうとする場合、犯行にレンタカーを使用すれば、その車両ナンバーから自分の犯行であることが発覚する恐れのあることは何人でも容易に考えつくことであるから(レンタカーを借りる際には免許証を呈示しなければならないところ、Dも犯行前日にDバンを借りる際、バレーレンタカーの従業員にその氏名を明確にしているから、車両ナンバーが判明してしまえば、そこから誰の犯行かが明らかになってしまうことになる。)、C殺害の実行犯人としても、そのような事態をできる限り避けようと考えて行動したとするのが合理的である。したがって、C殺害の実行犯人が犯行に際し、本名を用いて借りたレンタカーを使用したと考えることは、本件殺人事件の計画性、綿密性、例えば、貨物用バンで周囲から死角を作った上、強盗被害を装うため、Cを銃撃しただけではなく、Aの大腿部をも銃撃していることなどに照らして、その不均衡が際立つというべきで、不自然、不合理であるとさえいうことができる。

八  まとめ

以上説示したとおり、Dバンと現場バンとがその車種等を同一にすること、Dが供述するDバンの使途が客観的な合理性を欠くことは認められるものの、Dが右の使途についてことさら虚偽を述べているとまでは断定できないことや、アンテナマストの装着の有無に関して、Dバンと現場バンの同一性に疑いを抱かせる事情が存在することなどを勘案すると、検察官が主張するように、Dバンと現場バンが同一のものであること、すなわち、DがDバンを運転して本件犯行現場におもむいたと断定するのは困難であるといわなければならない。

第四  Dの関与を疑わせるその他の諸事情について

一  Dが本件殺人事件の前日(Aがロスアンジェルスに到着した日)、Aをシティーセンターモーテルに訪ねたことは、両名ともこれを自認しているところである。この点について、検察官は、その際、両名が本件殺人事件に関する打ち合わせをしたものであると主張する。

しかし、両名は、その際、ドンドンからフルハムロードに送る商品の仕入れ状況や、ブレスト・カレンダーの追加注文等仕事上の打ち合わせをしたと供述しているところ、Aは、ロスアンジェルスを訪ねる都度、その初めころにDと仕事上の打ち合わせをしていたものであって、両名の関係に照らせば、仕事上の打ち合わせをしたという右供述には何ら不自然あるいは不合理な点はない。

また、検察官は、Aは、Cの殺害にあたり、その前日には共犯者と打ち合わせを行ったはずであるところ、ロスアンジェルスに到着後、殺害の打ち合わせをする十分な時間的な余裕がなく、しかも、Cのいない貴重な時間帯に、Dと会っていることが、DがC殺害の実行犯人であることを推認させると主張するが、AがDと仕事上の打ち合わせを終えて別れた後、D以外のC殺害の実行犯人と会った可能性は否定できないのであるから、検察官の主張は理由がない。

したがって、Dが本件殺人事件の前日にAと会ったことが、DがC殺害の実行犯人であることの状況証拠となるものではない。

二  D及び妻D2の各公判供述によれば、Dは、本件殺人事件の約五か月後の昭和五七年四月下旬ころロスアンジェルスから日本に帰国したことが認められる。

ところで、Dが帰国するに至った事情について検討すると、D3の検察官調書(〈書証番号略〉)及びDの警察官調書(〈書証番号略〉)によれば、Dは、昭和五六年一二月、当時サンフランシスコに居住していたDの姉D4が自殺したため、その葬儀に訪れた姉D3から、常々Dの父D5がDの帰国を強く希望していることや、D5らが営むD商事の経営をめぐって家族内に対立があり、その解決のためにDの帰国を望む声があることを聞き、妻D2と相談した上で帰国を決心したこと、その後、Aに事情を話し、その了承を得た上、フルハムロードからの仕入れ代行の引き継ぎについても、翌五七年一月に渡辺哲に対し、きちんと行ってから帰国したことが認められる。したがって、Dの帰国の経緯には格別不自然な点はないというべきである。

なお、渡辺哲は、公判廷において、昭和五六年九月ころ、AからDが日本に帰国するので、その後を引き受けて欲しい旨依頼された旨供述するが、他方、Aの公判供述によれば、この間の事情として、Aあるいはフルハムロードの従業員らは、恒常的に商品の納期が間に合わないなどのことから、Dの仕事ぶりに強い不満を抱いていたこと、そのため、Aは、Dに知られないように、フルハムロードの商品買い付け代行業を行う人間を探していたこと、そして、その一環として、当時シティーセンターモーテルで働いていた渡辺哲を誘ったことが認められる。そうすると、Aにおいて、渡辺を説得する手段として、Dが帰国する旨の口実を設けたとも考えられるから、渡辺の右供述は、Dが帰国の決心をしたのが本件殺人事件の後の昭和五六年一二月以降のことであるとの前記認定を左右するものではないというべきである。

第五  Dの不関与を疑わせる諸事情について

一  犯行動機の不存在

検察官は、Dは、渡米してD2と結婚した後、怠惰な生活を送っていたため、妻子の生活をようやく維持する程度の収入しかあげられないで、蓄財をすることもできなかった上、住宅を購入したいとの希望を持ちながら、他方で先物取引に失敗して月収の二倍以上の損失を被った際、Aから本件殺人事件の誘いを受け、報酬金を目的としてC殺害に及んだと主張する。

しかし、D及びD2の公判供述によれば、Dは、D2との結婚後千代田インダストリアルに勤務し、毎月八〇〇ドル程度の収入を得ていたこと、その後ドンドンを設立してAのフルハムロードとの取引を始めてからは、毎月一〇〇〇ドル程度の収入があり、その額は次第に増え、本件殺人事件当時においては毎月一〇〇〇ドルないし二〇〇〇ドルの収入があったほか、一九八一年(昭和五六年)六月からはD2も看護婦として働くようになり、その収入を加えれば、長女D1を交えた親子三人の生活に事欠くようなことはなかったこと(検察官も本件殺人事件当時のDの生活程度は中の上程度のものであったことを認めている。)が認められる。

ところで、一般に殺人というような重大な犯罪を犯す場合、激情犯といわれるものであっても、犯人の立場に立てば、犯行に及んだことについて、それなりに首肯しうるような動機が存するのが通常である。まして、検察官の主張によれば、Dは、Aから報酬を餌にC殺害を誘われたというのであるから、これを実行した場合の利害得失、ことに本件は、殺人という重大犯罪であるのであるから、自分が殺人事件の犯人として警察に逮捕された場合の自分及び家族に対する社会からの風当たり、その後の生活状況等を冷静に十分時間をかけて検討したはずである。しかし、右認定の事実によると、Dは、本件殺人事件当時、妻と幼い長女D1とともにささやかではあるが、幸福な生活を送り、その収入もD2のそれを合わせれば、親子三人の生活に事欠くようなことはなかったのである。このようなDが、たとえその収入のほとんどを依存していたAからの誘いだとしても、わずかの報酬目的のために、現在の幸福な生活を捨て、失敗した場合の自分及び家族に訪れるであろう危険を冒してまで、これに簡単に応じたとは到底考えられない。確かに、本件殺人事件当時、Dは、先物取引の失敗により約五八〇〇ドルの損失を被ったことは認められるが、それとて当時のDの収入のわずか二か月ないし三か月程度のものにすぎない上、検察官の主張する、本件殺人事件当時、Dが借りていた家が売りに出され、同人がこれを欲していたという事情についても、本件証拠上、DがCを殺害してまでも切実にこれを欲していたとまで認めることはできないから、いずれにしてもDがAからのC殺害の誘いに応ずる理由とはなし難い。

そうすると、本件殺人事件当時、Dは、Aから報酬を餌にC殺害を持ち掛けられたとしても、これに応ずるような状況にはなかったものと認めるのが相当である(なお、Dが報酬を目当てにC殺害の実行行為に及んだが、帰国後生活が安定したため、Aに報酬請求することを断念したとの検察官の主張に至っては、その主張自体において、いかにも不自然、不合理であって到底採用の限りではない。)。

二  本件殺人の報酬の不存在

検察官は、Dが昭和五七年八月にAから受領した一八三万円が本件殺人事件に関する報酬の一部であると主張する。

捜査関係事項照会回答書(〈書証番号略〉)及び捜査報告書(〈書証番号略〉)によれば、Aは、昭和五七年八月二三日金一八三万円をDの妻D2名義の富士銀行立川支店の普通預金口座に振り込み、同月二四日Dがこれを払い戻して、東京銀行大阪空港支店のD2名義の普通預金口座に振り込んだことが認められる。そして、本件証拠上、AからDに渡った金員のうち、右一八三万円を除いては、Dに対する本件殺人事件の報酬であることを疑わせるものはないことが認められる。

そうすると、まず、報酬の一部支払いだとしても、一八三万円という金額が殺人という重大犯罪の報酬としてはいかにも少額であることを指摘しなければならないが、その点を措いて、さらに検察官の主張について検討を加えることとする。

そこで、右一八三万円の性質について検討すると、被告人両名は、いずれも右一八三万円は、DとAとの間において、CBH関係の顧問料として、AがDに対し、月額四〇〇ドルを支払う約束になっていたところ、その支払いが一九八〇年(昭和五五年)七月から滞るようになり、Dがドンドンの営業をやめた一九八二年(昭和五七年)二月までの未払い総額が八〇〇〇ドルとなったので、これをDが帰国した後に、昭和五七年二月当時の為替レートに基づいて計算して支払ったものであると供述している。そして、捜査報告書(〈書証番号略〉)、請求書(〈書証番号略〉)によれば、Dは、フルハムロードがCBHとの間で商標権使用等に関する契約を締結するに際し、Aに付き添って通訳を行い、契約書を翻訳するなど本来のドンドンの業務と異なる仕事をし、その後もCBH関係での仕事が予想されたことから、月額四〇〇ドルを顧問料として受け取ることになったこと、Aは、右顧問料を当初は約定どおり支払っていたが、その後Dの請求にもかかわらず、次第に支払いを滞らせるようになり、Dがドンドンの仕事を辞め、一時帰国した昭和五七年二月の時点では二〇か月八〇〇〇ドルが未払いとなっていたこと、そこで、Dは、昭和五七年二月九日、Aに右八〇〇〇ドルを同年八月に支払う旨の念書を書いてもらったこと、そして、Aは、この念書に基づき、右八〇〇〇ドルについて同年二月時点の為替レートによって計算した一八三万円をDの妻D2名義の普通預金口座に振り込んだことが認められ、これらの事実は、両名の右供述の信憑性を裏付けている。

ところで、検察官は、右一八三万円がD2名義の普通預金口座に振り込まれていることが不自然であると主張するが、Dは、この点について、AからCの保険金請求の関係で右一八三万円の名目を看護料にして欲しい旨依頼されたため、名目はともかくこれを支払ってもらえるならばと考えてこのような形式をとった旨供述し、Aも顧問税理士から税務対策上、支払い名目を看護料にしてもらった方が良いとのアドバイスを受けたため、その旨Dに依頼したなどとDの供述に符合する供述をしている。したがって、一八三万円の支払い名目が看護料とされた経緯に関するDの供述は、関係証拠との整合性もあって、それほど不自然であるとはいえない。

また、検察官は、Aは、同人が顧問料の支払いを滞らせるようになったころには、DにCBH関係の顧問料を支払うべき理由はすでに消滅していたのであるから、Aが昭和五七年八月にこれを支払ったのは不合理であると主張するが、たとえフルハムロードとCBHとが商標権使用契約を締結した当時の状況がその後変化したとしても、AのDに対する顧問料支払いの法的義務が当然になくなるということはないのであるから、検察官の主張は法律的に失当であることが明らかであるし、Dが帰国した後、その後を引き継いだ渡辺哲においても、Aから、月額四〇〇ドル程度の顧問料を受領していたことは、同人の公判供述自体からも認められるから、この点においても、検察官の主張は、採用の限りではない。

そもそも、右一八三万円が本件殺人事件の報酬の一部であったとするならば、証拠が残らないように現金で手渡せばよいのであって(そうすることができないような事情は見いだし難い。)、わざわざ証拠を残すような銀行振り込みにすることの方が不自然であるといわなければならない。さらに、検察官は、AがDに約束した報酬金のうち、一八三万円以外の分については、Dにおいて帰国後、その生活状況が好転したため、Aに請求することを放棄したと主張するが、捕まれば自分だけでなく家族の生活も脅かされるという危険を冒してまで実行したC殺害の報酬をたやすく放棄するということは考え難いから、その主張自体が不自然、不合理といわなければならない。

このように、本件においては、DがAから本件殺人事件の報酬を受け取ったことを認めるに足りる証拠はない。

三  Dと凶器との結び付きの不存在

証人大町茂の公判供述、報告書(〈書証番号略〉)及び鑑定書(〈書証番号略〉)によれば、C殺害に用いられたライフル銃は、口径が二二口径、弾丸に右向き一六条のライフルマークを印象するライフル銃であることが認められる。他方、D方から押収したライフル銃は、口径は二二口径ではあるが、弾丸に右向き六条のライフルマークを印象するライフル銃であると認められるので、C殺害に用いられたものでないことが明らかである。そして、本件においては、Dが右向き一六条のライフルマークを持つライフル銃を所持していたことを窺わせる証拠は全くない。

なお、証人柴山真理子及び同柴山光央の各公判供述中には、昭和五七年二月二〇日ころ、柴山夫妻が新婚旅行でロスアンジェルスを訪れた際、D宅でボルトアクション式のライフル銃(すなわち、Dが帰国に際して持ち帰り、その後同人方から押収されたライフル銃とは別個のもの。)を見た旨の供述部分がある。しかし、右供述部分が信用できると仮定した場合においても、柴山夫妻が見たというライフル銃とC殺害に用いられたライフル銃とが同一のものであることを認めるに足りる証拠はない(犯行に使用したライフル銃をその後自宅の人目につきやすい場所に、三か月余にわたり無造作に置いておくなどということは到底考え難い。)。また、真理子については、D宅でライフル銃を見た際の状況について、居間の暖炉の上に立て掛けてあったので、幼い子供がいるのに危険だと心配になった旨ライフル銃があったことを記憶している根拠を挙げながら具体的に供述しているが、実況見分調書(〈書証番号略〉)及び証拠品複写報告書(〈書証番号略〉)によれば、ロスアンジェルスのD宅の暖炉は埋め込み式のもので、その構造上、暖炉の上に何か物を立て掛けるということは不可能であることが認められるのであって、右事実に照らすと、真理子の供述は、その根幹部分が客観的な事実と矛盾し、到底信用することができない。さらに、光央についても、D宅でライフル銃を発見したときの状況について、捜査段階では、真理子と同様暖炉の上に立て掛けてあったと供述していたのに、公判廷においては、暖炉の横に立て掛けてあったと供述が変わっている上(恐らく、真理子の供述が客観的な状況と矛盾することが判明したために供述を変えたものと考えられる。)、新婚旅行の際、D宅で見たライフル銃は、昭和五一年暮れから翌五二年春ころにかけて当時フェドラー通りのアパートに住んでいたDを訪ねた際に見たライフル銃と同じであったと供述しているところ、林正史の検察官調書(〈書証番号略〉)並びにDの検察官調書(〈書証番号略〉)及び警察官調書(〈書証番号略〉)によれば、Dがフェドラー通りのアパートで所持していたライフル銃は、その後同人が日本に持ち帰り、押収されているライフル銃であると認められるから、この事実に照らしても光央の供述は信用することができない。

ところで、検察官は、Dが前記認定の凶器をどこから入手し、その後どのように処分したかについては全く主張しない一方で、Dは、ライフル銃に相当習熟していた旨の主張をしている。確かに、C殺害の実行犯は、一発でCの顔面に銃弾を命中させるとともに、他方、Aに対しては致命傷を与えないように、その大腿部に銃弾を命中させているのであって、相当のライフル銃の腕前の持ち主であったと認めるのが相当である。しかし、本件証拠上、Dは、昭和五一年暮れないし翌五二年ころ、林正史からライフル銃を購入後四、五回射撃場に通い、練習をしたことは認められるものの、それ以上にライフル銃の使用に習熟していたとまで認めることはできないから、右に認定した程度の練習で、果たして本件殺人事件のような困難な銃撃を行えたものか多大な疑問があるというべきである。

したがって、C殺害の実行犯人が使用した凶器であるライフル銃についても、Dとの結び付きを認めるに足りる証拠はない。

四  アリバイ工作の不存在

一般に殺人というような重大犯罪を犯す犯人の心理として、後日捜査が自分の周辺に及ぶことを想定して、何らかのアリバイ工作を行うのが自然であるところ、ことに、Dは、ロスアンジェルスにおけるAの知己のうちでは最もAに近い人物であると周囲の者から見られていたのであるから、DがC殺害の実行犯人であるとしたならば、自分に疑いがかかることを予想し、あらかじめ本件殺人事件当時のアリバイ工作をしておくのが、前記説示した本件殺人の計画性、用意の周到性からしても自然であると考えられるのに、本件において、Dがこのようなアリバイ工作を行ったことを認めるに足りる証拠は全くない。

第六  結論

以上説示したとおり、検察官において、DがC殺害の実行犯人であることを推認させる状況証拠であると主張するものは、いずれもその存在が不確実であったり、あるいはその存在が認められても、他方で、これと両立し、DがC殺害の実行犯人であることを疑わせる他の状況証拠も存在するのであるから、これらの状況証拠を総合した場合、DがC殺害の実行犯人であると断定するにはなお合理的な疑いが残るものというほかない。したがって、本件殺人の公訴事実については、Dに対しては犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言い渡しをする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官松本昭德 裁判官小池勝雅、同柴山智は、いずれも転勤につき署名押印することができない。裁判長裁判官松本昭德)

別紙一覧表(一)〈省略〉

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